『史記』項羽本紀を読んでみよう:その28

その27(http://d.hatena.ne.jp/T_S/20180916/1537024011)の続き。






項王乃西從蕭、晨撃漢軍而東、至彭城、日中、大破漢軍。漢軍皆走、相隨入穀・泗水、殺漢卒十餘萬人。漢卒皆南走山、楚又追撃至靈壁東睢水上。漢軍卻、為楚所擠、多殺、漢卒十餘萬人皆入睢水、睢水為之不流。圍漢王三帀。
於是大風從西北而起、折木發屋、揚沙石、窈冥晝晦、逢迎楚軍。楚軍大亂壞散、而漢王乃得與數十騎遁去、欲過沛、收家室而西。楚亦使人追之沛、取漢王家、家皆亡、不與漢王相見。
漢王道逢得孝惠・魯元乃載行。楚騎追漢王、漢王急、推墮孝惠・魯元車下、滕公常下收載之。如是者三。曰「雖急不可以驅、奈何棄之?」於是遂得脱。求太公・呂后不相遇。審食其從太公・呂后輭行、求漢王、反遇楚軍。楚軍遂與歸、報項王、項王常置軍中。
(『史記』巻七、項羽本紀)


項羽劉邦らを急襲。漢および諸侯の軍は壊乱し、相当数の兵が犠牲になったという。



更に項羽劉邦を追い詰め包囲したが、大風が楚の視界を遮り、そのおかげで劉邦は逃げる事が出来たのだという。



またも少数の護衛だけを連れて急行する羽目になる劉邦。その途上で息子の劉盈(後の恵帝)と娘(後の魯元公主)を回収したが、劉邦は楚の騎兵に追われ、少しでも軽くしようとして子供たちを捨てて行こうとした。だが劉邦の御者の夏侯嬰がそれを止めて子供たちをまた拾い上げた(そしてそれを3回繰り返した)ので、劉邦も子供たちも助かったのだという。




しかし、劉邦の父(劉太公)と正妻呂氏は項羽に捕えられ、人質になったのであった。





劉邦のドン引きするレベルの畜生さと、とことん生き残るしぶとさの両方がよく分かる。



しかし、何にせよ、今回の戦いによって情勢は一変し、劉邦の方がとてつもなく危ない状態になったのであった。