『史記』項羽本紀を読んでみよう:その21

その20(http://d.hatena.ne.jp/T_S/20180908/1536332555)の続き。





居數日、項羽引兵西屠咸陽、殺秦降王子嬰、燒秦宮室、火三月不滅。收其貨寶婦女而東。
人或説項王曰「關中阻山河四塞、地肥饒、可都以霸。」項王見秦宮皆以燒殘破、又心懷思欲東歸、曰「富貴不歸故郷、如衣繡夜行、誰知之者!」説者曰「人言楚人沐猴而冠耳、果然。」項王聞之、烹説者。
(『史記』巻七、項羽本紀)


項羽、秦王を殺し、宮殿を焼き払う。



そして劉邦が我慢したという財宝や婦女子略奪を行った。




綺麗に劉邦と逆の事をした事になる。





項羽が関中を後にしようとするのを見て、「関中を本拠として天下に覇を唱えるべきです」と進言する者がいたが、項羽は「富貴な身分になったのに故郷に戻らないなんて、美しい着物を着て暗い夜に出歩くようなものだ。誰も見てくれないではないか」と言ったという。




その進言者は「アイツ脳みそサル並みかよ・・・」と陰でdisったそうだが、それを知った項羽はその者を煮殺したのだとか。





この件は項羽の戦略眼とか、情緒を優先してしまうところとか、暴虐とかを表す話なのかもしれない。



しかし、項羽はそもそも秦の人間を20万人この世からしまっちゃった張本人なので、その20万人の故郷に陣取って円満に統治し、更に天下全体にも覇を唱える、なんて芸当が出来たものか、正直言って疑問がある。



項羽自身も、それを理解していたのではなかろうか。自分が王になる事は無い、というか、なる事は出来ないと思っていたからこそ、焦土にして根こそぎ奪っておこう、という発想になったんじゃないだろうか。





思うに、項羽は宋義を暗殺して軍権を強奪したクーデター首謀者なので、戦功を立て続けて真っ先に関中に入り関中の王にならないと自分の地位が危なかった。



だがその過程で秦人20万を穴埋めしてしまったため、手に入れたかったはずの関中が恨み満載の危険な土地になってしまった。




項羽はせっかく関中に入ったのに、勝利を約束された土地関中を手放して関東で色々な勢力に気を使ったりしながら薄氷を踏むような覇道を続けなければいけなくなったのである。




劉邦をすぐ殺せなかったのも、有利な土地である関中に陣取れない以上、諸侯や臣下からの信頼といった要素を重視していく必要があると感じていたからではなかろうか。



最初の段階はまだしも、劉邦の方が最低限の筋を通してしまったので、項羽としては今後を考えるとあまり無理を通しにくいと思ったのだろう。