見慣れぬ郡名

詔曰「齊、古之建國也、今為郡縣、其復以為諸侯。將軍劉賈數有大功、及擇𥶡惠脩虜者、王齊・荊地。」
春正月丙午、韓王信等奏請以故東陽郡・鄣郡・呉郡五十三縣立劉賈為荊王、以碭郡・薛郡・郯郡三十六縣立弟文信君交為楚王。壬子、以雲中・鴈門・代郡五十三縣立兄宜信侯喜為代王、以膠東・膠西・臨淄・濟北・博陽・城陽郡七十三縣立子肥為齊王、以太原郡三十一縣為韓國、徙韓王信都晉陽。
(『漢書』巻一下、高帝紀下、高祖六年)


漢の高祖劉邦項羽を破って天下を統一すると、各地に王を新たに立てることとした。



そこでたとえば「東陽郡・鄣郡・呉郡」だった土地は高祖の親戚である劉賈が荊王に立てられた。


分天下以為三十六郡。
【注】
集解、三十六郡者、三川・河東・南陽・南郡・九江・鄣郡・會稽・潁川・碭郡・泗水・薛郡・東郡・琅邪・齊郡・上谷・漁陽・右北平・遼西・遼東・代郡・鉅鹿・邯鄲・上黨・太原・雲中・九原・鴈門・上郡・隴西・北地・漢中・巴郡・蜀郡・黔中・長沙凡三十五、與内史為三十六郡。
(『史記』巻六、秦始皇本紀、始皇二十六年)


それらの「郡」はほとんどが秦の時の三十六郡の枠組みがそのまま生きていたのではないかと思われるところだが、よく見ると「東陽郡」「呉郡」「郯郡」「膠東郡」「膠西郡」「臨淄郡」「濟北郡」「博陽郡」「城陽郡」といった郡名は秦の三十六郡には見えない。




おそらくだが、漢(高祖)と項羽の争いの中で高祖が接収、占領した土地を順次新たな郡として切り分けて行くなどして、秦の三十六郡とも統一以降の漢の郡とも違う名前と区分の郡が、高祖による項羽側への侵攻から統一までの短い間にいくつも出来ていたのではなかろうか*1

*1:項羽側によって新設された郡という可能性も捨てきれない。