あぶさん2

徐邈字景山、燕國薊人也。太祖平河朔、召為丞相軍謀掾、試守奉高令、入為東曹議令史。
魏國初建、為尚書郎。時科禁酒、而邈私飲至於沈醉。校事趙達問以曹事、邈曰「中聖人。」達白之太祖、太祖甚怒。度遼將軍鮮于輔進曰「平日醉客謂酒清者為聖人、濁者為賢人、邈性脩慎、偶醉言耳。」竟坐得免刑。後領隴西太守、轉為南安。
文帝踐阼、歴譙相・平陽・安平太守・潁川典農中郎將、所在著稱、賜爵關内侯。
車駕幸許昌、問邈曰「頗復中聖人不?」邈對曰「昔子反斃於穀陽、御叔罰於飲酒、臣嗜同二子、不能自懲、時復中之。然宿瘤以醜見傳、而臣以醉見識。」帝大笑、顧左右曰「名不虚立。」遷撫軍大將軍軍師。
(『三国志』巻二十七、徐邈伝)


昨日の話の続きである。




後漢末、いわゆる三国志の時代の徐邈は酒飲みであった。曹操禁酒法を定めていたにも関わらず飲酒を止めることは無く、尚書郎という要職に就いておきながら泥酔して曹操の近臣に会い、「聖人に当たっていた」*1と言ったという。



曹操は激怒したが、度遼将軍鮮于輔(郷里が近い)が「大酒飲みの間では清酒を「聖人」、濁酒を「賢人」と呼んでいます。酔ってそれが口を出ただけです」と弁護したために助かったという。





その後、曹丕が皇帝になってから、徐邈は皇帝曹丕に「今も「聖人に当たって」いるのか?」と聞かれ、「酒が原因で殺された子反、酒で罰を受けた御叔と同じ嗜好の私ですが彼らを戒めとすることもできずに今もたまに「聖人に当たって」おります。しかし、瘤があってもその外見のお蔭で有名になったりするように、私はアル中のお蔭で陛下に憶えていただけました」と答え、曹丕に気に入られたのだという。





思うに、曹操はなぜ鮮于輔の言葉で許したのだろうか。禁酒法に逆らったからというのなら、その弁護は酒飲みであることを積極的に肯定したようなもので弁護になっていないではないか。



ということは禁酒破りそのものが曹操激怒の理由ではないのだ。




とすると、「聖人」という言葉が使われた意味、解釈が問題なのだろう。






一つの解釈は、上記引用の後半で言及されている「御叔」の件である。

傳、二十二年春、臧武仲如晉、雨、過御叔。御叔在其邑、將飲酒、曰、焉用聖人、我將飲酒、而已雨行何以聖為。穆叔聞之曰不可使也、而傲使人、國之蠹也。令倍其賦。
(『春秋左氏伝』襄公二十二年、伝)

春秋時代、魯の御叔という者は自分が宴会を開こうという時にやってきて宴会をジャマしたことになった臧武仲について、「アイツが聖人なものか。おれが酒を飲もうとしているのにわざわざやってくるなんて聖人と言えるはずがない」と悪態をついたために罰を受けた、とのことである。




徐邈がそれを踏まえていた(あるいは、曹操がそれを踏まえて解釈した)とすると、「酒を飲んでいるのをジャマしてきた曹操も聖人ではないな」と言っていたことになる。


上司批判であり、当時の事実上の最高権力者批判であり、もっと言うと「曹操は聖人=天子にはふさわしくない」という宣言にも読めてしまうではないか。



なるほど、それなら曹操は怒るわけであるし、「清酒のことを「聖人」と呼んだだけで他意はありません」と言われただけで不問にするわけである。






もう一つの意地の悪い解釈に昨日の記事が関係してくる。



昨日の記事によると「聖人は酒をものすごくたくさん飲めた」と思われていた節があるそうなので、徐邈は大酒を飲むことを「ワイも聖人の仲間入りやで!」みたいに表現した、ということになるのかもしれない。
あるいは、その聖人と酒の関係を踏まえて酒を飲むことを聖人になぞらえるような言い回しが酒飲みにはあったのかもしれない*2



これはこれで「ワイこそ聖人やがな」と宣言しているようにも取れてしまうので、やはり政治的に危険な発言である。





自分としてはどの説とも断言しがたいが、なんにせよ曹操が「聖人」の語に過剰反応したというのは言えると思う。





*1:「中聖人」の「中」は中毒などと同様の意味の「中」であろうか。

*2:というか、清酒を「聖人」と称すること自体が昨日の記事のような風説に基づいたことのようにも思う。