『三国志』文帝紀を読んでみよう:その9

その8(https://t-s.hatenablog.com/entry/2020/02/01/000100)の続き。





五年春正月、初令謀反大逆乃得相告、其餘皆勿聽治。敢妄相告、以其罪罪之。
三月、行自許昌還洛陽宮。
夏四月、立太學、制五經課試之法、置春秋穀梁博士。
五月、有司以公卿朝朔望日、因奏疑事、聽斷大政、論辨得失。
秋七月、行東巡、幸許昌宮。
八月、為水軍、親御龍舟、循蔡・潁、浮淮、幸壽春。
揚州界將吏士民、犯五歲刑已下皆原除之。
九月、遂至廣陵、赦青・徐二州、改易諸將守。
冬十月乙卯、太白晝見。
行還許昌宮。
十一月庚寅、以冀州饑、遣使者開倉廩振之。
戊申晦、日有食之。
十二月、詔曰「先王制禮、所以昭孝事祖、大則郊社、其次宗廟、三辰五行、名山大川、非此族也、不在祀典。叔世衰亂、崇信巫史、至乃宮殿之内、戸牖之閒、無不沃酹、甚矣其惑也。自今、其敢設非祀之祭、巫祝之言、皆以執左道論、著于令典。」
是歳、穿天淵池。
(『三国志』巻二、文帝紀

黄初5年。



曹丕広陵へ。



これは単なる旅行でも諸国への顔見世でもなく、れっきとした遠征である。なんだか文帝紀ではハッキリ書かれていないように思えるが。


九月、魏文帝出廣陵、望大江、曰「彼有人焉、未可圖也」、乃還。
(『三国志』巻四十七、呉主伝、黄武三年)

後魏文帝大出、有渡江之志、(徐)盛建計從建業築圍、作薄落、圍上設假樓、江中浮船。諸將以為無益、盛不聽、固立之。文帝到廣陵、望圍愕然、彌漫數百里、而江水盛長、便引軍退。諸將乃伏。
(『三国志』巻五十五、徐盛伝)

呉の方の記録では、徐盛による急造防備と長江の水位を見て侵攻を取りやめたのだとされている。




また曹丕青州・徐州の太守らを多く変更したという。



その二州はもともと先代の因縁からあまり曹氏に従順とは言えない土地柄であったが、いい加減そろそろ支配を確立したいという魏側の目論見があったのだろう。





曹丕、祈祷の類を禁絶。


ただ曹丕は朱建平・周宣といった人相見や占断は信頼しているので、現代で言うところのオカルトをどれも信じていなかったわけではない。