『漢書』王莽伝を読んでみよう:下その10

その9の続き。


翼平連率田況奏郡縣訾民不實、莽復三十税一。以況忠言憂國、進爵為伯、賜錢二百萬。衆庶皆詈之。青・徐民多棄郷里流亡、老弱死道路、壯者入賊中。
夙夜連率韓博上言「有奇士、長丈、大十圍、來至臣府、曰欲奮撃胡虜。自謂巨毋霸、出於蓬萊東南、五城西北昭如海瀕、軺車不能載、三馬不能勝。即日以大車四馬、建虎旗、載霸詣闕。霸臥則枕鼓、以鐵箸食、此皇天所以輔新室也。願陛下作大甲高車、賁育之衣、遣大將一人與虎賁百人迎之於道。京師門戸不容者、開高大之、以視百蠻、鎮安天下。」博意欲以風莽。
莽聞惡之、留霸在所新豐、更其姓曰巨母氏、謂因文母太后而霸王符也。徴博下獄、以非所宜言、棄市。
明年改元地皇、從三萬六千歳暦號也。
(『漢書』巻九十九下、王莽伝下)


翼平連率田況が財産課税は郡県で事実通りになされていないと上奏し、王莽はそこで以前の三十分の一を課税する事に戻した。王莽は田況は憂国の士の忠義の発言であるとして爵位を伯爵に進め、二百万銭を下賜した。人々はこのことを罵った。青・徐州では民の多くが郷里を捨てて流民となり、老人や年少者は道中に死亡し、元気な者は群盗に参加した。



夙夜連率韓博は上奏した。「尋常でない人物がおります。その者は身長一丈(225センチメートル位)、胴回りは十囲いで、私の役所に来て「異民族たちを攻めたい」と言ってきました。自ら「巨毋覇(巨無覇)」と名乗り、蓬莱の東南、五城の西北の昭如海のほとりより出た者と言い、普通車や三頭の馬では載せられず、即日大型車と四頭の馬を使い、虎の旗を立てて巨毋覇を宮城の門へと送り出しました。巨毋覇は太鼓を枕とし、鉄の箸で食事をします。これは天が新王朝を助けるために遣わしたのでしょう。願わくは陛下は巨大な鎧と馬車、勇士孟賁・夏育の衣を作り、大将一人・虎賁百人を派遣して彼を出迎えんことを。都の門戸で彼を通せないところは改修して大きくし、彼を異民族たちに見せつけ、天下を鎮撫なさいませ」
韓博は王莽に対してほのめかそうとしたのであった。



王莽はそれを聞いて不快に思い、巨毋覇を到達した新豊に留めておき、巨毋を「巨母」と改姓させ、「文母太后によって覇王となる」という予言であると言った。
王莽は韓博を召喚して「言うべきではないことを言った」罪によって獄に下し、処刑した。




三万六千年の暦から定めた号に基づき、明年を「地皇」と改元することとした。


「三十分の一」とは漢代の租税のことなので、資産課税から旧来の所得課税方式に戻したということだろうか。



しかしそれが不評だったのは、おそらくだが資産課税方式が誤魔化しやすかったからだろう。それを真面目に告発した事に対して天下はブーイングをしていたということのようだ。





「巨毋覇」(巨無覇)登場である。



韓博は「王莽、字「巨君」が「」になれない()」という意味を込めて巨人に名前を付けた、ということなのだろう。
それに対抗して王莽は「毋」を字形の似ている「母」に変えることで「「巨母=ビッグ・マム=文母太后(元后)」によって「」となる」と意味をひっくり返そうとしたのだ。





初、王莽徴天下能為兵法者六十三家數百人、並以為軍吏。選練武衛、招募猛士、旌旗輜重、千里不絶。時有長人巨無霸、長一丈、大十圍、以為壘尉。又驅諸猛獸虎豹犀象之屬、以助威武。自秦・漢出師之盛、未嘗有也。
(『後漢書』紀第一上、光武帝紀上)


なお巨毋覇は『後漢書光武帝紀によれば王莽の軍に加わっていたと言うが、今回取り上げた本文ではあたかも韓博が作った架空の存在であったかのようである。


だが、韓博が王莽を攻撃するために作ったのはあくまでも「巨毋覇」という王莽を否定する語を含む名前だけで、身長2メートル25センチの伝説巨神自体は架空の存在ではないのだ、と考えることもできる。実際、新豊まで到着していると書かれているし。



実際どちらなのかはわからないが、現実には一丈より更に上の2メートル50センチを超える身長の人間もいるので、公称一丈の身長ならあり得なくもないんじゃないか、と思わないでもない。戦場で役に立つかどうかは別問題だが。