『漢書』武帝紀を読んでみよう:その7

その6(http://d.hatena.ne.jp/T_S/20171129/1511881407)の続き。




二年冬十月、行幸雍、祠五畤。
春、詔問公卿曰「朕飾子女以配單于、金幣文繡賂之甚厚、單于待命加嫚、侵盜亡已。邊境被害、朕甚閔之。今欲舉兵攻之、何如?」大行王恢建議宜撃。
夏六月、御史大夫韓安國為護軍將軍、衛尉李廣為驍騎將軍、太僕公孫賀為輕車將軍、大行王恢為將屯將軍、太中大夫李息為材官將軍、將三十萬衆屯馬邑谷中、誘致單于、欲襲撃之。單于入塞、覺之、走出。
六月、軍罷。將軍王恢坐首謀不進、下獄死。
秋九月、令民大酺五日。
(『漢書』巻六、武帝紀)

元光2年。




この年、武帝匈奴攻めを企画する。



明年、雁門馬邑豪聶壹因大行王恢言「匈奴初和親、親信邊、可誘以利致之、伏兵襲撃、必破之道也。」
上乃召問公卿曰「朕飾子女以配單于、幣帛文錦、賂之甚厚。單于待命加嫚、侵盜無已、邊竟數驚、朕甚閔之。今欲舉兵攻之、何如?」
(『漢書』巻五十二、韓安国伝)

漢使馬邑人聶翁壹間闌出物與匈奴交易、陽為賣馬邑城以誘單于。單于信之、而貪馬邑財物、乃以十萬騎入武州塞。漢伏兵三十餘萬馬邑旁、御史大夫韓安國為護軍將軍、護四將軍以伏單于。
單于既入漢塞、未至馬邑百餘里、見畜布野而無人牧者、怪之、乃攻亭。時雁門尉史行徼、見寇、保此亭、單于得、欲刺之。尉史知漢謀、乃下、具告單于。單于大驚曰「吾固疑之。」乃引兵還。出曰「吾得尉史、天也。」以尉史為天王。
漢兵約單于入馬邑而縱、單于不至、以故無所得。將軍王恢部出代撃胡輜重、聞單于還、兵多、不敢出。漢以恢本建造兵謀而不進、誅恢。
自是後、匈奴絶和親、攻當路塞、往往入盜於邊、不可勝數。然匈奴貪、尚樂關市、耆漢財物、漢亦通關市不絶以中之。
(『漢書』巻九十四上、匈奴伝上)

匈奴との交易をおこなっていた聶壹なる人物を使って匈奴単于をおびき寄せて伏兵によって殲滅しよう、ということだったらしいが不首尾に終わっている。




しかし、これによって武帝匈奴に対してこれまでとは全く違う、こちらから攻勢をかけていくのだという姿勢を打ち出したとは言えるだろう。




韓嫣字王孫、弓高侯穨當之孫也。武帝為膠東王時、嫣與上學書相愛。及上為太子、愈益親嫣。嫣善騎射、聰慧。上即位、欲事伐胡、而嫣先習兵、以故益尊貴、官至上大夫、賞賜儗訒通。
始時、嫣常與上共臥起。江都王入朝、從上獵上林中。天子車駕䟆道未行、先使嫣乘副車、從數十百騎馳視獸。江都王望見、以為天子、辟從者、伏謁道旁。嫣驅不見。既過、江都王怒、為皇太后泣、請得歸國入宿衛、比韓嫣。太后繇此銜嫣。
嫣侍、出入永巷不禁、以姦聞皇太后太后怒、使使賜嫣死。上為謝、終不能得、嫣遂死。
(『漢書』巻九十三、佞幸伝、韓嫣)

ちなみに、漢の武帝が王だった頃(幼児の頃)からの「ご学友」だった韓嫣について、武帝は武芸に優れた彼を匈奴相手に起用しようと考えていた、とされている。



韓嫣の家は匈奴にいた時期が長かったので、おそらく匈奴流の武芸を伝承していたのだろう。



つまり、韓嫣が健在であれば、この戦いやその後の匈奴との戦いで騎兵を率いて戦ったのは彼だったかもしれない、ということだ。