『漢書』王莽伝を読んでみよう:中その16

その15の続き。


五威將乗乾文車、駕坤六馬、背負鷩鳥之毛、服飾甚偉。毎一將各置左右前後中帥、凡五帥。衣冠車服駕馬、各如其方面色數。將持節、稱太一之使。帥持幢、稱五帝之使。
莽策命曰「普天之下、迄于四表、靡所不至。」
其東出者、至玄菟・樂浪・高句驪・夫餘。
南出者、隃徼外、歴益州、貶句町王為侯。
西出者、至西域、盡改其王為侯。
北出者、至匈奴庭、授單于印、改漢印文、去「璽」曰「章」。單于欲求故印、陳饒椎破之、語在匈奴傳。單于大怒、而句町・西域後卒以此皆畔。
饒還、拜為大將軍、封威徳子。
冬、靁、桐華。
(『漢書』巻九十九中、王莽伝中)

五威将は天文を象った馬車に乗り、六頭の牝馬に引かせ、雉の羽根を背負い、服装は大変威厳があった。一将ごとに左・右・前・後・中の五帥を置いた。衣服、冠、馬車、馬はどれも方角に合わせた色や数とした。将は節を持って「太一の使者」と称し、帥は旗を持って「五帝の使者」と称した。



王莽は策書でこう命じた。「天下全て、四方の外側に至るまで、行かないところは無い」



東へ行く者は玄菟・楽浪・高句驪・夫余へ至った。



南へ行く者は塞外を超え、益州を経て、句町王を侯に降格させた。



西へ行く者は西域に至り、西域の王をことごとく侯に降格させた。



北へ行く者は匈奴の朝廷に至り、匈奴単于に印を授けて漢の印の文面を改め、「璽」を「章」と変えた。単于は元の印を要求したので、陳饒は元の印を潰してしまった。そのあたりは『漢書匈奴伝を参照せよ。
単于は激怒した。また句町王や西域の王たちも結局反旗を翻した。



陳饒は戻ると大将軍に任じられ、威徳子の爵位に封じられた。




冬、雷が起こり、桐の木に花が咲いた。



五威将、全国を巡って後の反乱の種を蒔くの巻。もちろん実際に反乱の種を蒔いたのは王莽であって五威将たちはその尖兵に過ぎないが。



王莽之簒位也、建國元年、遣五威將王駿・率甄阜・王颯・陳饒・帛敞・丁業六人、多齎金帛、重遺單于、諭曉以受命代漢状、因易單于故印。
故印文曰「匈奴單于璽」、莽更曰「新匈奴單于章」。
將率既至、授單于印紱、詔令上故印紱。單于再拜受詔。譯前、欲解取故印紱、單于舉掖授之。左姑夕侯蘇從旁謂單于曰「未見新印文、宜且勿與。」單于止、不肯與。請使者坐穹廬、單于欲前為壽。五威將曰「故印紱當以時上。」單于曰「諾。」復舉掖授譯。蘇復曰「未見印文、且勿與。」單于曰「印文何由變更!」遂解故印紱奉上、將率受。著新紱、不解視印。飲食至夜乃罷。
右率陳饒謂諸將率曰「郷者姑夕侯疑印文、幾令單于不與人。如令視印、見其變改、必求故印、此非辭説所能距也。既得而復失之、辱命莫大焉。不如椎破故印、以絶禍根。」將率猶與、莫有應者。饒、燕士、果悍、即引斧椎壞之。
明日、單于果遣右骨都侯當白將率曰「漢賜單于印、言『璽』不言『章』、又無『漢』字、諸王已下乃有『漢』言『章』。今即去『璽』加『新』、與臣下無別。願得故印。」
將率示以故印、謂曰「新室順天制作、故印隨將率所自為破壞。單于宜奉天命、奉新室之制。」當還白、單于知已無可奈何、又多得賂遺、即遣弟右賢王輿奉馬牛隨將率入謝、因上書求故印。
(『漢書』巻九十四下、匈奴伝下)


匈奴の印については、上記引用にあるように「漢」と付かないことで諸侯王や他の異民族とはランクが違うことを示していたことに対し、今回新たに「新」と付くことで新王朝に従属するものという形式になった、ということである。


また「璽」は皇帝や諸侯王の印に使われるランクの高い字なので、「章」になったことも格下げと映るのである。



匈奴単于はうっかり元の(漢の時の)璽綬を五威将たちに渡してしまったが、新たな印の文面を見て格下げになったことに気付き、元の璽綬を返せと要求したのだ。


だが五威帥の一人である陳饒は返還要求を受けてもどうしようもないように先に潰してしまったということである。こうしなかったら匈奴単于は元の璽綬をころしててでもうばいとるところだっただろう。




とはいえ、これまで事実上従属状態ではあったにせよ漢王朝からは他の異民族や諸侯王とは一線を画する特別な地位を許されていた匈奴が体面を潰されたことを忘れるはずはなく、これで反乱の導火線に火が付いたのであった。