『漢書』王莽伝を読んでみよう:中その29

その28の続き。


莽至明堂、授諸侯茅土、下書曰「予以不徳、襲于聖祖、為萬國主。思安黎元、在于建侯、分州正域、以美風俗。追監前代、爰綱爰紀。惟在堯典、十有二州、衛有五服。詩國十五、抪徧九州。殷頌有『奄有九有』之言。禹貢之九州無并・幽、周禮司馬則無徐・梁。帝王相改、各有云為。或昭其事、或大其本、厥義著明、其務一矣。昔周二后受命、故有東都・西都之居。予之受命、蓋亦如之。其以洛陽為新室東都、常安為新室西都。邦畿連體、各有采任。州從禹貢為九、爵從周氏有五。諸侯之員千有八百、附城之數亦如之、以俟有功。諸公一同、有衆萬戸、土方百里。侯伯一國、衆戸五千、土方七十里。子男一則、衆戸二千有五百、土方五十里。附城大者食邑九成、衆戸九百、土方三十里。自九以下、降殺以両、至於一成。五差備具、合當一則。今已受茅土者、公十四人、侯九十三人、伯二十一人、子百七十一人、男四百九十七人、凡七百九十六人。附城千五百一十一人。九族之女為任者八十三人。及漢氏女孫中山承禮君・遵徳君・修義君更以為任。十有一公、九卿、十二大夫、二十四元士。定諸國邑采之處、使侍中講禮大夫孔秉等與州部衆郡曉知地理圖籍者、共校治于壽成朱鳥堂。予數與羣公祭酒上卿親聽視、咸已通矣。夫襃徳賞功、所以顯仁賢也。九族和睦、所以襃親親也。予永惟匪解、思稽前人、將章黜陟、以明好惡、安元元焉。」
以圖簿未定、未授國邑、且令受奉都内、月錢數千。諸侯皆困乏、至有庸作者。
(『漢書』巻九十九中、王莽伝中)

王莽は明堂で封建の儀式を行い、命令を下した。



「予は不徳の身で聖なる祖先を継いで天下の主となった。思うに民を安んじるには侯を立て、州を分け区域を正し、習俗を善いものとすることが一番である。先代を鑑みて綱紀を定めるのである。
書経』堯典では十二州と五種類の服飾がある。『詩経』国風は十五に分かれ、九つの州である。『詩経』商頌に「九州すべてを領有する」との言葉がある。『書経』禹貢の九州には并州と幽州が無く、『周礼』司馬では徐州・梁州が無い。帝王たちはお互いに改める部分があるのである。あるいはその事を明らかにし、あるいは重要な点を大きくし、その意義は顕著であり、その目的は一つである。
洛陽を「新室東都」とし、常安(長安)を「新室西都」とする。国々と首都を連ね、それぞれ委任する者を選ぶ。
州は『書経』禹貢に従って九とし、爵位周王朝に従って五とする。諸侯の数は千八百とし、附城の数も同じようにし、功績ある者を待つ。
公爵は一律に一万戸の領民と百里四方の土地とする。
侯爵と伯爵は一国あたり五千戸と七十里四方とする。
子爵と男爵は二千五百戸と五十里四方とする。
附城は大きな者で食邑は九成(一成は十里)、九百戸、三十里四方とし、二成ずつ減らしていって一番小さい者で一成とする。
五等の爵を揃え、合わせて一つの制度とする。
今、既に領土を受けている者は、公は十四人、侯は九十三人、伯は二十一人、子は百七十一人、男は四百九十七人、全部で七百九十六人である。附城は千五百十一人である。王氏と同族の女性で任となっている者は八十三人である。また漢王朝の子孫の女性である中山の承礼君・遵徳君・修義君はいずれも改めて任とする。
十一公、九卿、十二大夫、二十四元士を置いている。
諸々の国の領土の場所については、侍中・講礼大夫孔秉らと州・郡の地理や戸籍を良く知る者たちとで寿成室(元の未央宮)の朱鳥堂で定めさせた。
予は公たちや祭酒、上卿らと自ら確認し、みな既に目を通している。
そもそも徳を褒め功績に恩賞を与えるのは仁の心や賢明さを称揚するためである。親しい者を親しい地位に就けることを明らかにして、九族を仲睦まじくさせるのである。
予は永らく怠けることなく先人たちの事を考え、昇進や降格を明らかにし、良い事や悪い事を明確にして人々を安んじるのである。」



しかしながら、地図や戸籍が確定していないことを理由に領土が与えられず、仮に収入を金銭で受け取ることとしたが、月に数千銭であったため、諸侯はみな窮乏することとなり、小作人となる者までいた。



王莽、諸侯の制度を定める&長安と洛陽の二都制とする都構想を表明する。



ここに書かれていることからは、王莽の制度が実態に追いついていないらしいということが読み取れる。仮にどんなにきっちり定められていても組み替えるための時間や労力をなんとかできなければただの絵に描いた餅、ということだろうか。



又賜帝舅衛寶・寶弟玄爵關内侯。賜帝三妹、謁臣號修義君、哉皮為承禮君、鬲子為尊徳君、食邑各二千戸。
(『漢書』巻九十七下、外戚伝下、中山衛姫)


承礼君・遵徳君・修義君というのは漢の中山王の子で、平帝の妹たちのこと。平帝の最も近い親族ということで特別扱いされていたようだ。