『漢書』王莽伝を読んでみよう:下その1

中の続き。


四年五月、莽曰「保成師友祭酒唐林・故諫議祭酒琅邪紀逡、孝弟忠恕、敬上愛下、博通舊聞、徳行醇備、至於黄髮、靡有愆失。其封林為建徳侯、逡為封徳侯、位皆特進、見禮如三公。賜弟一區、錢三百萬、授几杖焉。」
六月、更授諸侯茅土於明堂曰「予制作地理、建封五等、考之經藝、合之傳記、通於義理、論之思之、至於再三、自始建國之元以來九年于茲、乃今定矣。予親設文石之平、陳菁茅四色之土、欽告于岱宗泰社后土先祖先妣、以班授之。各就厥國、養牧民人、用成功業。其在縁邊、若江南、非詔所召、遣侍于帝城者、納言掌貨大夫且調都内故錢、予其祿、公歳八十萬、侯伯四十萬、子男二十萬。」然復不能盡得。
莽好空言、慕古法、多封爵人、性實遴嗇、託以地理未定、故且先賦茅土、用慰喜封者。
(『漢書』巻九十九下、王莽伝下)

  • 天鳳四年(紀元17年)

天鳳四年五月、王莽は言った。「保成師友祭酒唐林、もと諫議祭酒の琅邪の紀逡は、親には孝にして兄弟仲も良く、忠実で上の者を敬い下の者を愛し、昔の事に通じ、徳行が備わっており、白髪も抜け落ちるほどの年齢になるまで過ちがなかった。唐林を建徳侯に封建し、紀逡を封徳侯に封建し、特進の位とし、三公と同等の礼遇を与える。屋敷一区画と三百万銭を下賜し、ひじ掛けと杖を授ける」



六月、改めて明堂で諸侯に封建の儀礼の土を授けて言った。「予は地理を定め、五等爵を建て、経書を紐解き、経書の注と合致させ、正しい解釈に通じ、何度も議論や熟考を傘ね、始建国元年より以来九年を経て今ここに定めることとなった。予は自ら模様のある石の階段を作り、四色の石を茅の葉でつつみ、泰山・后土や先祖に告げ、諸侯の象徴を授ける。それぞれその領国へ就任し、領民を統治し、業績を成し遂げよ。辺境もしくは江南で、詔書にて召し出された以外の者、帝城の侍従となっている者は、納言掌貨大夫が当面は帝室財産の銭を徴発して俸禄を与える。公は年間八十万、侯・伯は四十万、子・男は二十万銭とする」しかしながら、またもや全て支給されることはできなかった。



王莽は中身のない大言を好み、古の制度を慕って多く封建したが、吝嗇な性質であった。地理がまだ定まっていないことを理由に先に儀礼の土だけ授けて封建を受ける者の気持ちを落ち着かせた。



王莽、封建はするが土地や収入は渡さない。つまり現状手形状態であったようだ。



本気で換金する気のない手形をありがたがる人はいないわけで、こんな状態が続けば当然に政権の危機であろう。



自成帝至王莽時、清名之士、琅邪又有紀逡王思、齊則薛方子容、太原則郇越臣仲・郇相稚賓、沛郡則唐林子高・唐尊伯高、皆以明經飭行顯名於世。
紀逡・両唐皆仕王莽、封侯貴重、歴公卿位。 唐林數上疏諫正、有忠直節。唐尊衣敝履空、以瓦器飲食、又以歴遺公卿、被虚偽名。
(『漢書』巻七十二、鮑宣伝)


紀逡・唐林は当時において清廉さなどが評価された儒者であったといい、王莽の協力者であった。


唐林は皇太子の四友になっていたりする


王莽自身も少なくとも当初は同じような立ち位置の人物とみなされていたので、唐林らは本心から王莽に共鳴して協力していた、のかもなあ。