高祖は「二人」いたッ!

有司奏、武皇帝撥亂反正、為魏太祖、樂用武始之舞。文皇帝應天受命、為魏高祖、樂用咸熙之舞。帝制作興治、為魏烈祖、樂用章斌之舞。三祖之廟、萬世不毀。其餘四廟、親盡迭毀、如周后稷・文・武廟祧之制。
(『三国志』巻三、明帝紀、景初元年)

三国魏の「高祖」というと、最終的には文皇帝曹丕のことであることは上記の悪い意味で有名な決定より明らかである。





戊申、追尊高祖大長秋曰高皇帝、夫人呉氏曰高皇后。
(『三国志』巻三、明帝紀、太和三年六月)

その決定より以前、「高祖」大長秋を高皇帝と追尊するという命が下されている。



これはつまり曹操の祖父にあたる曹騰のことである。




ということは、上記の景初元年の決定までは「魏の高祖」というと曹騰のことを指していたということになりそうだ。




多分、景初元年に「三祖」を決めた時に高祖について曹騰から曹丕へのチェンジが行われたんじゃないかと思う。