『漢書』王莽伝を読んでみよう:上その25

その24の続き。


太后臨前殿、親封拜。安漢公拜前、二子拜後、如周公故事。莽稽首辭讓、出奏封事、願獨受母號、還安・臨印韍及號位戸邑。
事下太師光等、皆曰「賞未足以直功、謙約退讓、公之常節、終不可聽。」莽求見固讓。
太后下詔曰「公毎見、叩頭流涕固辭、今移病、固當聽其讓、令眡事邪?將當遂行其賞、遣歸就第也?」光等曰「安・臨親受印韍、策號通天、其義昭昭。黄郵・召陵・新野之田為入尤多、皆止於公、公欲自損以成國化、宜可聽許。治平之化當以時成、宰衡之官不可世及。納徴錢、乃以尊皇后、非為公也。功顯君戸、止身不傳。襃新・賞都両國合三千戸、甚少矣。忠臣之節、亦宜自屈、而信主上之義。宜遣大司徒・大司空持節承制、詔公亟入眡事。詔尚書勿復受公之讓奏。」奏可。
(『漢書』巻九十九上、王莽伝上)

元后は前殿に出て自ら王莽らへの封建・任命を行った。周公旦の故事のように、安漢公王莽が前で任命を受け、子の王安・王臨の二人がその後ろで受けるようにした。王莽は辞退し、退出してから母の称号のみ受け取り、王安・王臨の印綬や称号、領土は返還することを願い出た。



元后はその事を太師孔光らに審議させた。彼らはみな「恩賞は功績に釣り合わないほどですから、謙譲は安漢公の平素からの主義とはいえ、辞退を許すべきではありません」と言った。



元后は「安漢公は謁見のたびに頭を床に打ちつけ泣いて固辞し、今では病休になっているが、その辞退を聞き入れてまた政務に復帰させるべきであろうか?それとも、褒賞を遂行した上で辞職させるべきであろうか?」との詔を(孔光らに)下した。



孔光らは「王安・王臨は自ら列侯の印綬を受け取り、称号は天の意思に通じており、その意味は明らかです。黄郵・召陵・新野の農地については、多くの収入を得られますが、その利は安漢公自身にとどまるものであり、安漢公が自分が損してでも天下を教化しようと思っているのなら、辞退を聞き入れるべきでしょう。教化を受けて天下が治まる日は今にくるはずですが、宰衡の称号は代々のものではありません。結納金は皇后を尊ぶためのものであり、安漢公のためのものではありません。ご母堂功顕君の領土については本人のみにとどまり相続されません。王安・王臨の襃新侯・賞都侯は二国合わせて三千戸に過ぎず、大変少ない戸数です。忠臣としての貞節を押さえつけて主上の秩序を明らかにするべきです。大司徒・大司空に節を持たせて安漢公に遣わして政務を執るよう命じ、尚書に安漢公の辞退を受けないよう命令すべきです」と述べ、元后はそれを裁可した。


またいつもの辞退祭りであるが、元后と太師孔光ら政権首脳たちは「本人の領土以外の辞退は受けないように」と命じる。



まあ実際は出来レースなのかもしれないが、それくらいしないと褒賞を受け取らない謙虚な人、というイメージづくりが王莽のようなイメージ戦略で生き残ってきたような人間には必要だったんじゃなかろうか。