『漢書』王莽伝を読んでみよう:上その24

その23の続き。


四年春、郊祀高祖以配天、宗祀孝文皇帝以配上帝。
四月丁未、莽女立為皇后、大赦天下。遣大司徒司直陳崇等八人分行天下、覽觀風俗。
太保舜等奏言「春秋列功徳之義、太上有立徳、其次有立功、其次有立言、唯至徳大賢然後能之。其在人臣、則生有大賞、終為宗臣、殷之伊尹、周之周公是也。」
及民上書者八千餘人、咸曰「伊尹為阿衡、周公為太宰、周公享七子之封、有過上公之賞。宜如陳崇言。」
章下有司、有司請「還前所益二縣及黄郵聚・新野田、采伊尹、周公稱號、加公為宰衡、位上公。掾史秩六百石。三公言事、稱『敢言之』。羣吏毋得與公同名。出從期門二十人、羽林三十人、前後大車十乗。賜公太夫人號曰功顯君、食邑二千戸、黄金印赤韍。封公子男二人、安為襃新侯、臨為賞都侯。加后聘三千七百萬、合為一萬萬、以明大禮。」
(『漢書』巻九十九上、王莽伝上)

元始四年春、高祖劉邦を祀って天の位置に置き、文帝を祀って上帝の位置に置いた。



四月丁未、王莽の娘を皇后に立て、天下全土に恩赦を命じた。大司徒司直陳崇ら八人を全国各地へ派遣して各地の様子を視察させた。



太保の王舜らが上奏した。「『春秋』における功績や徳を順番付けるならわしにおいては、まず素晴らしい徳がある者を上とし、その次に功績がある者とし、その次に良い発言のあった者としますが、それができるのは最高の人徳と大いなる賢明さの持ち主だけです。その人が人臣であれば、生きているうちは盛大な恩賞を受け、命尽きた後は代々尊敬される臣下となります。殷の伊尹や周の周公旦がそれです」


また、民の中にもこういった上奏をする者が八千人もいた。「伊尹は阿衡となり、周公は太宰となり、七人の子を封建され、上公を超える褒賞を受けました。陳崇の上奏の通りにするべきです」



その事を担当部局に下げ渡して検討させた。担当部局はこう請い願った。「以前安漢公に加増したけれど公が辞退した召陵・新息の二県、黄郵聚、新野県の農地を安漢公に改めて返還し、伊尹の阿衡と周公旦の太宰の称号から名を取って安漢公に「宰衡」の号を賜い、上公の位としましょう。配下の掾史の官秩は六百石とし、三公が宰衡に何かを申し上げる時は「敢えて之を言う」という目下から格上への様式を使うよう定めましょう。官吏が安漢公と同じ名前を使うことを禁じましょう。出かける際には期門郎二十人、羽林郎三十人、馬車十台を従えるようにしましょう。安漢公のご母堂に「功顕君」の称号と食邑二千戸、赤い紐を付けた黄金の印章を下賜しましょう。安漢公の男子二名を封建し、王安を褒新侯、王臨を賞都侯としましょう。安漢公の娘である王皇后には結納金三千七百万銭を下賜して前からの分と合わせて一億銭とし、皇后を立てるという大きな礼制に適合させましょう」



呂寛事件が一段落すると、王莽は批判に晒されるどころか、周囲が新たな称号・待遇を決めようと動き出す。



殷の時代に摂政となり、不適格な王を放逐したという伊尹、および周の時代に摂政となり、王の職務を代行したという周公旦、それぞれの称号をそのままくっつけて一つにしたのが「宰衡」。



その配下の掾史が六百石というのは破格に高級である。太尉らの掾史でも四百石あたりであるからだ。


また「敢言之」というのは太守から司徒への上奏の形式らしく、つまり三公ですら宰衡の王莽に統属し、命令を受ける関係なのだ、ということなのだろう。




あと皇后へ三千七百万銭追加するというのは、皇后が以前受け取ったのは四千万銭(七百万しか手元に残さなかったが)+二千三百万銭(一千万は周囲にばらまいたが)=六千三百万銭だったので、三千七百万銭加わるとちょうど一億になる、ということのようだ。