『漢書』王莽伝を読んでみよう:中その1

上の続き。


始建國元年正月朔、莽帥公侯卿士奉皇太后璽韍、上太皇太后、順符命、去漢號焉。
初、莽妻宜春侯王氏女、立為皇后。本生四男、宇・獲・安・臨。二子前誅死、安頗荒忽、乃以臨為皇太子、安為新嘉辟。封宇子六人、千為功隆公、壽為功明公、吉為功成公、宗為功崇公、世為功昭公、利為功著公。
大赦天下。
莽乃策命孺子曰「咨爾嬰、昔皇天右乃太祖、歴世十二、享國二百一十載、暦數在于予躬。詩不云乎?『侯服于周、天命靡常。』封爾為定安公、永為新室賓。於戲!敬天之休、往踐乃位、毋廢予命。」
又曰「其以平原・安徳・漯陰・鬲・重丘、凡戸萬、地方百里、為定安公國。立漢祖宗之廟於其國、與周後並、行其正朔・服色。世世以事其祖宗、永以命徳茂功、享歴代之祀焉。以孝平皇后為定安太后。」
讀策畢、莽親執孺子手、流涕歔欷曰「昔周公攝位、終得復子明辟、今予獨迫皇天威命、不得如意!」哀歎良久。中傅將孺子下殿、北面而稱臣。百僚陪位、莫不感動。
(『漢書』巻九十九中、王莽伝中)

  • 始建国元年(紀元9年)

始建国元年正月一日、王莽は大臣、官僚たちを率いて皇太后の璽を奉って太皇太后へ献上し、天からの予兆に従って漢の号を捨て去った。



王莽の妻は宜春侯の王氏の娘であり、皇后に立てられた。彼女は王宇・王獲・王安・王臨の四人の男子を生んだが、王宇・王獲の二人は既に罪があって死に、王安はぼんやりしていたため、王臨が皇太子に立てられ、王安は新嘉辟という地位を与えられた。王宇の男子六人が封建され、王千は功隆公、王寿は功明公、王吉は功成公、王宗は功崇公、王世は功昭公、王利は功著公となった。



天下に大赦令を下した。



王莽は孺子嬰に策書による命を下した。「ああ、汝嬰よ、昔天は汝の太祖を助け、十二代、二百十一年に渡り受け継がれてきたが、天命は我が身にある。『詩経』に言うではないか、「周に侯として仕える。天命は一定ではない」と。汝を封じて定安公とし、末永く新王朝の客分とする。ああ、麗しき天を敬い、汝の地位に就き、我が命に背かぬように」
またこう言った。「平原・安徳・漯陰・鬲・重丘県の計一万戸、百里四方をもって定安公国とする。その国に漢の宗廟を立て、周王朝の末裔と同じようにし、漢の暦や服の色を用いよ。代々漢の祖宗に仕え、とこしえに徳や功績を先祖代々の祭祀に供するように。平帝の皇后を定安太后とする」
策書を読み終わると、王莽は孺子嬰の手を取って涙を流しすすり泣いて「昔周公旦が天子を代行した際は、最終的に地位を返上したが、私は天命に迫られたために思った通りにすることができなかった」といい、長らく悲しんでいた。中傅が孺子嬰を先導して殿の下へ行かせ、北に向かって「臣」と称した。参列していた官僚たちはそれに感じ入らない者はいなかった。




王莽、即位の儀。



王莽は皇后や皇太子を定め、それから漢の皇太子ということになっていた孺子嬰を「定安公」とした。




周が殷王の血筋を諸侯として封建して残し、漢は周王の末裔を探し出して諸侯とした。同じようなことだ。



おそらく、後の魏王朝後漢献帝を山陽公に封建したのも、直接的には今回の措置に則っているのだろう。




子(王)譚嗣、以列侯與謀廢昌邑王立宣帝、益封三百戸。薨、子咸嗣。王莽妻即咸女、莽簒位、宜春氏以外戚寵。自訢傳國至玄孫、莽敗乃絶。
(『漢書』巻六十六、王訢伝)


王莽の正妻は王氏。先祖は丞相王訢で、列侯の娘であった。


王氏同士で結婚していいのか、と思うところだが、どうも血統が違うから大丈夫、ということらしい。


列侯の娘が召使に見えるような格好をしていたというのだから、彼女も夫に付き合わされて色々と苦労したことだろう。