『漢書』王莽伝を読んでみよう:上その8

その7の続き。


莽以大司徒孔光名儒、相三主、太后所敬、天下信之、於是盛尊事光、引光女壻甄邯為侍中奉車都尉。
哀帝外戚及大臣居位素所不説者、莽皆傅致其罪、為請奏、令邯持與光。光素畏慎、不敢不上之、莽白太后、輒可其奏。
於是前將軍何武・後將軍公孫祿坐互相舉免、丁・傅及董賢親屬皆免官爵、徙遠方。
紅陽侯立太后親弟、雖不居位、莽以諸父内敬憚之、畏立從容言太后、令己不得肆意、乃復令光奏立舊惡「前知定陵侯淳于長犯大逆罪、多受其賂、為言誤朝。後白以官婢楊寄私子為皇子、衆言曰呂氏・少帝復出、紛紛為天下所疑、難以示來世、成襁褓之功。請遣立就國。」太后不聽。莽曰「今漢家衰、比世無嗣、太后獨代幼主統政、誠可畏懼、力用公正先天下、尚恐不從、今以私恩逆大臣議如此、羣下傾邪、亂從此起!宜可且遣就國、安後復徴召之。」太后不得已、遣立就國。
莽之所以脅持上下、皆此類也。
(『漢書』巻九十九上、王莽伝上)

大司徒の孔光が高名な儒者で、成・哀・平の三帝の宰相を務め、元后も尊敬しており、天下の人々も信用していることから、王莽は孔光を尊重し、孔光の娘婿である甄邯を侍中・奉車都尉に引き立てた。



哀帝外戚や、大臣の中で王莽にとって面白くない人物について、王莽は罪をなすりつける上奏を担当者に作らせ、甄邯に孔光へ持って行くよう命じた。孔光はもとより小心であったので、それを上奏しないことはなかった。王莽は孔光から上がってきたその上奏を元后へ言上し、元后が裁可した。



そうして先にお互いを推薦し合った何武と公孫禄は罷免され、哀帝外戚丁氏・傅氏や腹心董賢の一族も官位や爵位を奪われて配流となった。



また、元后の実の弟の紅陽侯王立についても、高い官位には無いとはいえ、王莽は叔父に当たることから彼を憚っており、王立が非公式な場で元后に何か言って王莽が自分の思い通りにできなくなることを恐れた。そこで王莽は孔光に「王立は以前定陵侯淳于長の大逆罪や賄賂の授受を知りつつ彼を助けて朝廷を騙していました。またその後には官婢楊寄の私生児を皇子にしようと述べており、人々は(異姓の者を皇帝としていた)呂氏の再来であると噂しています。このような疑わしいことでは幼い皇帝を補佐を務めることについて後世に示すことはできません。王立を領国へ行かせるべきです」と以前の悪事を摘発させた。しかし元后はそれを認めなかった。


そこで王莽は「今漢王朝は何度も後継ぎ不在という事態に陥り、太皇太后が幼い皇帝に代わって政治を見ることになっています。大変恐れ多いことであって、公正さを天下に対して率先して示さなければならず、それでもなお人々が従わないのではないかと恐れなければいけません。それなのに私的な恩義で大臣たちの議論に逆らっては、下々の者が邪な考えに傾き、乱の原因となりましょう。しばらく領国へ行かせ、事態が安定してからまた呼び戻せば良いのです」と元后を説得し、元后はやむなく王立の放逐を認めた。



王莽はこうして上の者や下の者を脅して操ったのである。




王莽は三公の筆頭の大司馬であったが、行政は基本的に大司徒の範疇であることから、大司徒孔光を通さないと自分の意を通せなかったということなのだろう。



また、最終的な決裁は王莽が本来指図できない元后が行うことから、上手く言いくるめないと王莽は我意を貫けない。



王莽が彼らを上手く利用して邪魔者の排除を進めたということだ。






また、王莽らによる話なので信憑性はいかほどか怪しいところもあるが、王立が奴婢の私生児を皇子にしようとした、という重大事がサラッと出てきてるのも注目ポイントかもしれない。



おそらく、後継ぎが出来なかった(育たなかった)成帝の時代に、その私生児を皇子扱いして帝位を継がせようということだったのだろう。王氏の息がかかっているから、哀帝が即位するのと比べて王氏にとってはメリットがある、というわけだ。