わかったこと:楽安王

昨日の記事(http://d.hatena.ne.jp/T_S/20160422/1461252696)のコメントにて、「楽安王」は司馬懿の孫のことではないか、とのご指摘をいただいた。



文帝九男、文明王皇后生武帝・齊獻王攸・城陽哀王兆・遼東悼惠王定國・廣漢殤王廣徳、其樂安平王鑒・燕王機・皇子永祚・樂平王延祚不知母氏。燕王機繼清惠亭侯、別有傳。永祚早亡、無傳。
(『晋書』巻三十八、文六王伝)

なるほど、確かに晋の文帝司馬昭の子として「楽安王司馬鑒」という者がいる。




他に見当たらないし、昨日の記事の『魏略』ではこの人物を晋における称号で表記したということになるのだろう。




しかしこの時期は兄のはずの司馬炎でさえ10歳になったかならないか位の年齢であるから、司馬鑒に至ってはまだ幼児の域であった可能性が高い。



コメントでも指摘されているように、司馬懿が怨んだというのは、自分の幼い孫を行かせたからだろう。


というよりも、これはもしかしたら人質扱いだったのかもしれない(あくまで推測だが)。