『晋書』文帝紀を読んでみよう:その1

帝紀https://t-s.hatenablog.com/entry/2019/08/07/000100)の次は文帝紀にする。





文皇帝諱昭、字子上、景帝之母弟也。
魏景初二年、封新城郷侯。
正始初、為洛陽典農中郎將。値魏明奢侈之後、帝蠲除苛碎、不奪農時、百姓大悦。轉散騎常侍。
大將軍曹爽之伐蜀也、以帝為征蜀將軍、副夏侯玄出駱谷、次于興勢。蜀將王林夜襲帝營、帝堅臥不動。林退、帝謂玄曰「費禕以據險距守、進不獲戰、攻之不可、宜亟旋軍、以為後圖。」爽等引旋、禕果馳兵趣三嶺、爭險乃得過。遂還、拝議郎。
及誅曹爽、帥衆衛二宮、以功增邑千戸。
(『晋書』巻二、文帝紀

晋の文帝司馬昭司馬師と父母を同じとする弟。


嫁娶喪葬取給於官、以世子(司馬)師為散騎常侍、子弟三人為列侯、四人為騎都尉。帝固讓子弟官不受。
(『晋書』巻一、宣帝紀


司馬師より先に郷侯になったようであるが、これは斉王芳即位後に父司馬懿に与えられた恩典の内の一つで、この時点では世子つまり司馬懿の後継ぎの司馬師司馬懿爵位をそのまま継ぐから新たな爵位は必要無い、という事だったと思う。



曹爽らの蜀攻めに加わっていたが、この負け戦の時に司馬昭費禕の攻撃を予見して虎口を逃れた、という。どこまで真実かは知らないが、敵地へ攻め込む以上、退路を断たれて大被害を受けるという可能性もある事は確かだろう。

曹爽らは勝てなかっただけでなく、赤壁のように大被害を出してしまう可能性まであった、という事だったのだ。


そして、司馬昭がその後に多くの朝臣から支持されて魏を牛耳っていく事から見て、この時の対処などのように頼りになる人物と思われるだけの言動はあったのではなかろうか。