諸葛亮は丞相となり劉禅の輔政となると「武郷侯」に封じられる。
この「武郷侯」は一見するといわゆる郷侯となり、「県」を構成する単位である「郷」ひとつに封じられたように思える。
だが、もしかしたら、そうとも限らないかもしれない。
琅邪郡・・・(中略)・・・武郷、侯國。莽曰順理。
(『漢書』巻二十八上、地理志上、琅邪郡)
『漢書』地理志によると、前漢の琅邪郡には「武郷」という侯国があったという。
これはつまり前漢においては県と同等の侯国として「武郷」という国があったということだ。
そして言うまでもないが琅邪郡といえば諸葛亮の本貫、いわば故郷の地である。
蜀漢は諸葛亮を郷単位ではなく、県単位の侯(県侯)として「武郷」という故郷の県(国)の侯にした・・・のかもしれない。
事実上の最高権力者となった諸葛亮には、郷侯よりは県侯であると言う方がしっくりくるという面はある。
ただ、最高権力者が郷侯でいけないというものでもないだろうから、その点はなんとも言えないが。