広陵侯

十四年。封(劉)荊子元壽為廣陵侯、服王璽綬、食荊故國六縣、又封元壽弟三人為郷侯。明年、帝東巡狩、徴元壽兄弟會東平宮、班賜御服器物、又取皇子輿馬、悉以與之。建初七年、肅宗詔元壽兄弟與諸王倶朝京師。
元壽卒、子商嗣。商卒、子條嗣、傳國于後。
(『後漢書』列伝第三十二、広陵王荊伝)

後漢光武帝の息子の一人、広陵王劉荊。



彼は謀反の扇動や呪詛といったガチの問題行動が数多く、ついには自殺することとなった。



その後、広陵王国は当然没収状態だったわけだが、明帝は劉荊の息子の元寿を広陵侯にしてやり、侯のままで王の印綬と領邑を与えてやったという。



つまり広陵王国を侯に格下げした上で事実上広陵王国を復活させたのだ。


そしておそらく元寿の孫の条の代まで続いたのだろう。






http://d.hatena.ne.jp/T_S/20090601/1243784858


ところで、後漢の徐州はトラックバック先にあるように

・東海国

・琅邪国

・彭城国

広陵

・下邳国

の5つだったわけだが、元寿の話からすると広陵郡も実はある時期までは「広陵国」だったことになる。




後漢の徐州は全部諸侯王(侯)の国だけで郡が無かったのか・・・。