越か趙か

越將從起薛、至霸上、以樓煩將入漢、定三秦、屬周呂侯、破龍且彭城、為大司馬、破項籍葉、為將軍、忠臣、侯、七千八百戸。
(『漢書』巻十六、高恵高后文功臣表、陽都敬侯丁復)

趙將從起鄴、至霸上、為樓煩將入漢、定三秦、別降翟王、屬悼武王、殺龍且彭城、為大司馬、破羽軍葉、拜為將軍、忠臣、侯、七千八百戸。
(『史記』巻十八、高祖功臣侯者年表、陽都)



漢の高祖の功臣の中でも有力な者の一人、丁復。



彼の事績はあまり記録が無い上に、『漢書』と『史記』では重大な違いがある。




漢書』ではその出自を「越将」、『史記』では「趙将」としているのだ。





丁夫人・雒陽虞初等以方祠詛匈奴、大宛焉。
【注】
應劭曰「 丁夫人、其先丁復、本越人、封陽都侯。夫人其後、以詛軍為功。」韋昭曰「丁、姓。夫人、名也。」
(『漢書』巻二十五下、郊祀志下)

この点について、どうやらあの風俗通こと応劭先生は丁復を越の人間として解釈していたらしい。


越人である丁復の子孫が呪術の達人なのだというのだ。




つまり、少なくとも風俗通先生の時代である後漢末には、丁復は越人であると思われていたらしいということになる。






想像をたくましくするなら、丁復が封じられた陽都とは琅邪郡内の県だ。



そして琅邪といえば遥かな昔に越王がやってきた土地であった。




この時に琅邪に定住した越の末裔が丁復であり、劉邦から故郷の近くに封建してもらった、といった事情があったりなかったりしたのかもしれない。