嫌われ文氏の一生

初、帝目有瘤疾、使醫割之。(文)鴦之來攻也、驚而目出。懼六軍之恐、蒙之以被、痛甚、齧被敗而左右莫知焉。閏月疾篤、使文帝總統諸軍。辛亥、崩于許昌、時年四十八。
(『晋書』巻二、景帝紀



ああそうか、この記事で紹介したような文俶(文鴦)の嫌われ体質の原因の一つに、「彼が司馬師の目玉を飛び出させた」というのがあったのかもしれんな。




晋王朝の開祖の一人を死においやった(意図したものではないが)という人物では、晋王朝の当主としてはあまり仲良くするわけにもいかないかもしれない。




諸葛誕を外祖に持つ琅邪王系統にも憎まれてるし文鴦大変やね。