『晋書』宣帝紀を読んでみよう:その27

その26(https://t-s.hatenablog.com/entry/2019/07/19/000100)の続き。





制曰、夫天地之大、黎元為本。邦國之貴、元首為先。治亂無常、興亡有運。是故五帝之上、居萬乗以為憂。三王已來、處其憂而為樂。競智力、爭利害、大小相吞、強弱相襲。逮乎魏室、三方鼎峙、干戈不息、氛霧交飛。宣皇以天挺之姿、應期佐命、文以纘治、武以棱威。用人如在己、求賢若不及。情深阻而莫測、性寬綽而能容。和光同塵、與時舒卷、戢鱗潛翼、思屬風雲。飾忠于已詐之心、延安于將危之命。觀其雄略内斷、英猷外決、殄公孫於百日、擒孟達於盈旬、自以兵動若神、謀無再計矣。既而擁衆西舉、與諸葛相持。抑其甲兵、本無鬭志、遺其巾幗、方發憤心。杖節當門、雄圖頓屈、請戰千里、詐欲示威。且秦蜀之人、勇懦非敵、夷險之路、勞逸不同、以此爭功、其利可見。而返閉軍固壘、莫敢爭鋒、生怯實而未前、死疑虚而猶遁、良將之道、失在斯乎!
文帝之世、輔翼權重、許昌同蕭何之委、崇華甚霍光之寄。當謂竭誠盡節、伊傅可齊。及明帝將終、棟梁是屬、受遺二主、佐命三朝、既承忍死之託、曾無殉生之報。天子在外、内起甲兵、陵土未乾、遽相誅戮、貞臣之體、寧若此乎!盡善之方、以斯為惑。
夫征討之策、豈東智而西愚?輔佐之心、何前忠而後亂?故晉明掩面、恥欺偽以成功。石勒肆言、笑姦回以定業。
古人有云「積善三年、知之者少。為惡一日、聞于天下」、可不謂然乎!雖自隠過當年、而終見嗤後代。亦猶竊鍾掩耳、以衆人為不聞。鋭意盜金、謂市中為莫覩。故知貪于近者則遺遠、溺于利者則傷名。若不損己以益人、則當禍人而福己。順理而舉易為力、背時而動難為功。況以未成之晉基、逼有餘之魏祚?雖復道格區宇、徳被蒼生、而天未啟時、寶位猶阻、非可以智競、不可以力爭、雖則慶流後昆、而身終於北面矣。
(『晋書』巻一、宣帝紀

最後。「制曰」という事は、これは『晋書』編纂を命じた唐の太宗の言葉という事になる。



(石)勒因饗高句麗・宇文屋孤使、酒酣、謂徐光曰「朕方自古開基何等主也?」對曰「陛下神武籌略邁于高皇、雄藝卓犖超絕魏祖、自三王已來無可比也、其軒轅之亞乎!」勒笑曰「人豈不自知、卿言亦以太過。朕若逢高皇、當北面而事之、與韓・彭競鞭而爭先耳。脱遇光武、當並驅于中原、未知鹿死誰手。大丈夫行事當礌礌落落、如日月皎然、終不能如曹孟徳・司馬仲達父子、欺他孤兒寡婦、狐媚以取天下也。朕當在二劉之間耳、軒轅豈所擬乎!」其羣臣皆頓首稱萬歳。
(『晋書』巻一百五、石勒載記)


「石勒肆言」以下は、上記の割と有名な言葉を指している。


石勒は自らを漢の高祖と光武帝の間の君主と位置づける一方、曹操司馬懿らは孤児や寡婦を欺いて天下を取ったような連中だと断じている。




『晋書』のこの部分では、この石勒の言葉や晋明帝の発言も持ち出し、司馬懿が将としても不十分で臣下としては偽物である、といった事を言っているようだ。



「魏文の時には蕭何が高祖から関中を委ねられたのと同じような信任を受け、霍光が武帝から後継ぎの補佐を任された時以上に信頼されていたのに、烈祖様が死んだ後には陵墓も乾かない内から内乱を起こした」などと言われているが、確かにそういう事ではある。



まあ、その時の王朝である魏もまたここの文中で踏まえられている石勒の言葉によると晋と同様とされているので、唐太宗らからすれば「ろくでもない成り立ちの王朝が同じような事を同じようなろくでもない成り立ちの王朝にやられた」という認識だったのかもしれないが。



その裏には、「唐はそういう連中とは違う」という自負があったのではなかろうか。





『晋書』宣帝紀はここまで。