司馬氏政権の危機

毌丘儉作亂、大將軍司馬景王東征、(鍾)會從、典知密事、衛將軍司馬文王為大軍後繼。景王薨於許昌、文王總統六軍、會謀謨帷幄。時中詔敕尚書傅嘏、以東南新定、權留衛將軍屯許昌為内外之援、令嘏率諸軍還。會與嘏謀、使嘏表上、輒與衛將軍倶發、還到雒水南屯住。於是朝廷拜文王為大將軍輔政、會遷黄門侍郎、封東武亭侯、邑三百戸。
(『三国志』巻二十八、鍾会伝)

大将軍司馬師が反乱鎮圧をあらかた終えるも許昌で死亡した時、残された軍はひとまず弟の衛将軍司馬昭が率いた。




だが、陣中にあった傅嘏に皇帝(高貴郷公)から詔書が届き、衛将軍司馬昭は反乱の余勢を警戒するために許昌に残り、軍勢は傅嘏が率いて洛陽へ戻るようにと命令された。




しかしここで傅嘏と鍾会はその命令に従わず、衛将軍司馬昭は傅嘏とともに洛陽へ戻ることとなった。





これは明らかに皇帝側による「兵権奪還」の策略であり、もし彼らが皇帝の命を素直に聞いていれば司馬昭の手に司馬師と同等の権力がそのまま手渡されることはなかったのだろう。




だが実際には司馬昭司馬師の率いていた大軍(六軍)にぴったり張り付き続けたため、もし司馬昭が満足しない人事が行われれば皇帝が大変憂慮すべき事態を引き起こすことになるのは火を見るより明らかという状況が生じ、司馬昭司馬師と同じだけの権力をそのまま委譲せざるを得なくなったのであった。






こう考えると、もうこの時点で司馬昭と高貴郷公は両立することはあり得ないというレベルの緊張状態になっていたのかもしれないなあ。