裸の王様

初、四方皆以飢寒窮愁起為盜賊、稍稍羣聚、常思歳熟得歸郷里。衆雖萬數、亶稱巨人・從事・三老・祭酒、不敢略有城邑、轉掠求食、日闋而已。諸長吏牧守皆自亂鬬中兵而死、賊非敢欲殺之也、而(王)莽終不諭其故。
是歳、大司馬士按章豫州、為賊所獲、賊送付縣。士還、上書具言状。莽大怒、下獄以為誣罔。
因下書責七公曰「夫吏者、理也。宣徳明恩、以牧養民、仁之道也。抑強督姦、捕誅盜賊、義之節也。今則不然。盜發不輒得、至成羣黨、遮略乘傳宰士。士得脱者、又妄自言『我責數賊「何故為是?」賊曰「以貧窮故耳」。賊護出我。』今俗人議者率多若此。惟貧困飢寒、犯法為非、大者羣盜、小者偷穴、不過二科、 今乃結謀連黨以千百數、是逆亂之大者、豈飢寒之謂邪?七公其嚴敕卿大夫・卒正・連率・庶尹、謹牧養善民、急捕殄盜賊。有不同心并力、疾惡黜賊、而妄曰飢寒所為、輒捕繫、請其罪。」於是羣下愈恐、莫敢言賊情者、亦不得擅發兵、賊由是遂不制。
(『漢書』巻九十九下、王莽伝下、地皇二年)

王莽の新王朝末期のこと。




この時、餓えや寒さに苦しむ者が苦しさに耐えかねて盗賊となり、次第に集団化して何万人といった大きな勢力となっていくことが多かった。



だがそれでもその集団は農作物のことばかり考え、郷里に帰りたがる者たちばかりであり、城を攻め取るといった気持ちがあったわけではなかったし、郡県の長官たちを殺害したといっても乱戦の中で死んだだけで、賊の方が望んだわけではなかったのだ、という。




あるとき、大司馬府の監察官がそのような賊に捕らわれたが、その賊はその者を殺さずに釈放した。そこでその者は「賊たちは貧しさゆえにこのようなことをしたのだと言っている」と王莽に上奏したが、それが王莽の怒りに触れた。




王莽は「貧しさから手を染めてしまう犯罪は群盗の類であって、何万人も結集して悪事を働くような大逆は貧しさから行う事ではない。宰相たちは指揮下に対して厳重に注意し、賊を早急に捕えると共に、「貧しさから行った」などと言う者のことを捕えて罪に問うようにしろ」と命じたのである。




つまり、貧しさから犯罪に手を染めたとしても小集団の群盗までであり、大集団は貧しさとは一切無関係な反逆者であるから、大集団について「貧しさが原因です」などと言う役人は真面目に秩序を取り戻そうとしていない者ということなので罪に問え、ということらしい。





しかしながら最初に書かれているように、大集団もその本質は貧しさゆえに追いつめられた末のことであるというから、前線で賊と当たる役人たちは、報告を上げようにも下手なことが書けなくなったのではなかろうか。




王莽によれば「貧しさから追いつめられた大集団の賊」というのは存在しない(存在すると言えば罪になる)のだから、実際に存在した場合には報告が困難になってしまうではないか。





かくして、新王朝は余計に各地で発生する賊の大集団に対しての即応性を失うこととなり、いよいよ賊を制することができなくなっていったのだ、という。








似たような話は秦の二世皇帝にも見られたことである*1





状況が煮詰まってきた時にトップが自分のメンツや独善から末端にはわけのわからない指示を出してきて事態がいよいよ悪化の一途をたどる・・・みたいに一般化すると、身につまされる人も多いのではないだろうか、などと思わないでもない。




*1:この話は新王朝のダメさ加減を強調するために秦二世のエピソードから焼き増しして作られたと見ることも可能だろう。