『漢書』武帝紀を読んでみよう:その27

その26(http://d.hatena.ne.jp/T_S/20180101/1514732786)の続き。




天漢元年春正月、行幸甘泉、郊泰畤。
三月、行幸河東、祠后土。
匈奴歸漢使者、使使來獻。
夏五月、赦天下。
秋、閉城門大搜。
發謫戍屯五原。
二年春、行幸東海。還幸回中。
夏五月、貳師將軍三萬騎出酒泉、與右賢王戰于天山、斬首虜萬餘級。又遣因杅將軍出西河、騎都尉李陵將歩兵五千人出居延北、與單于戰、斬首虜萬餘級。陵兵敗、降匈奴
秋、止禁巫祠道中者。大搜。
渠黎六國使使來獻。
泰山、琅邪羣盜徐㪍等阻山攻城、道路不通。遣直指使者暴勝之等衣繍衣杖斧分部逐捕。刺史郡守以下皆伏誅。
冬十一月、詔關都尉曰「今豪傑多遠交、依東方羣盜。其謹察出入者。」
(『漢書』巻六、武帝紀)

天漢元年、2年。



天漢二年、貳師將三萬騎出酒泉撃右賢王於天山。召(李)陵、欲使為貳師將輜重。
陵召見武臺、叩頭自請曰「臣所將屯邊者、皆荊楚勇士奇材劍客也、力扼虎、射命中、願得自當一隊、到蘭干山南以分單于兵、毋令專郷貳師軍。」上曰「將惡相屬邪!吾發軍多、毋騎予女。」陵對「對所事騎、臣願以少撃衆、歩兵五千人涉單于庭。」上壯而許之、因詔彊弩都尉路博徳將兵半道迎陵軍。
(『漢書』巻五十四、李陵伝)

李陵は李広利の輜重隊となるのを嫌い、自ら歩兵五千で匈奴に当たりたいと申し出て認められた。



しかし李陵は匈奴単于率いる数倍の騎兵を相手にすることとなり、結局は敗れて降伏した。




まあこのあたりは有名な話だろう。





一方、群盗の発生等に対応するため皇帝がじきじきに命じた「直指使者」が各地に派遣される。群盗の討伐の指揮監督と、群盗を生んだ直接の責任者であるところの刺史や太守の罪を問い処罰を行うという強大な権限を与えられていた。



実際、暴勝之などは各地で太守や県令を誅殺して回っていたらしい事が記録されている(『漢書』王訢伝など)。




皇帝の使者が各地で長官処刑の旅をするという、末期感が濃厚にただよう状況であった。