『漢書』王莽伝を読んでみよう:下その24

その23の続き。


初、四方皆以飢寒窮愁起為盜賊、稍稍羣聚、常思歳熟得歸郷里。衆雖萬數、亶稱巨人・從事・三老・祭酒、不敢略有城邑、轉掠求食、日闋而已。諸長吏牧守皆自亂鬬中兵而死、賊非敢欲殺之也、而莽終不諭其故。
是歳、大司馬士按章豫州、為賊所獲、賊送付縣。士還、上書具言状。莽大怒、下獄以為誣罔。
因下書責七公曰「夫吏者、理也。宣徳明恩、以牧養民、仁之道也。抑強督姦、捕誅盜賊、義之節也。今則不然。盜發不輒得、至成羣黨、遮略乗傳宰士。士得脱者、又妄自言『我責數賊「何故為是?」賊曰「以貧窮故耳」。賊護出我。』今俗人議者率多若此。惟貧困飢寒、犯法為非、大者羣盜、小者偷穴、不過二科、今乃結謀連黨以千百數、是逆亂之大者、豈飢寒之謂邪?七公其嚴敕卿・大夫・卒正・連率・庶尹、謹牧養善民、急捕殄盜賊。有不同心并力、疾惡黜賊、而妄曰飢寒所為、輒捕繫、請其罪。」
於是羣下愈恐、莫敢言賊情者、亦不得擅發兵、賊由是遂不制。
(『漢書』巻九十九下、王莽伝下)

当初、各地では飢えや寒さから追い詰められ盗賊となり、次第に人が集まっていったが、豊作の年になったら郷里に帰りたいと常に思っていた。万単位の人が集まっていても、ただ巨人・従事・三老・祭酒といった称号しか名乗らず、城郭を占領しようとはせずに食料を奪い求めるのみで一日を過ごしていた。長官や牧も自ら乱闘の中で殺されたのであって、賊は敢えて殺そうとしたわけではなかった。しかしながら王莽はそういった事情を理解しなかった。



この年、大司馬士が予州の取り調べに行った際、群盗に捕まったが群盗は県に送り届けた。その大司馬士は戻ってからその時の事情を上奏した。王莽は激怒し、その大司馬士を上を騙そうとした罪状で獄に下した。
そして王莽は七公を叱責する命令を下した。「吏というのは「理(治める)」ということである。恩や徳を明らかにして民を養い育てる、これが仁の道である。強い者を抑え、悪が栄えないよう監督し、盗賊を捕えて罰を与える、これが義の定めである。しかし今はそうではない。盗賊が発生してもすぐに捕まえられず、大群になって早馬で動く宰相の士を捕まえた。その士が脱出すると、「私が賊に「なぜこのようなことをするのか?」と責めたところ、「貧しさのあまりそうするしかなかったのだ」と答え、賊は私を護送してくれました」と言っている。今、世俗にもこのようなことを言う者が多い。だが思うに貧困やひもじさから法を犯すというのは、大きいもので群盗、小さいものでは泥棒の二種類に過ぎない。しかし今は千以上もの人数が集まって謀略を考えており、これは反乱の中でも大きいものである。どうしてこれが貧困やひもじさによって起こったと言えようか。七公は自分の配下の卿・大夫・卒正・連率・庶尹らに厳しく命令し、謹んで民を養い、盗賊をすぐに捕えるようにさせよ。もし力を合わせて悪を退け盗賊を捕えようとせず、みだりに「飢えや寒さによってこうなった」などと言う者があったら、すぐにその者を捕えて罪状を上申するように」



これによって臣下はいよいよ恐れ、群盗が起こる事情を言う者は無く、また兵を自由に動かすことも出来ず、ついには群盗を制御することができなくなった。



王莽、群盗を弁護する者を共謀とみなすの巻。





しかし、前には大規模な群盗の一人を説得して下したりもしているので、この大司馬士も「群盗にも心ある者はいる。原因を追究して上手くすれば他の賊も説得できるだろうし発生自体も抑えられる」と考え、国のため皇帝王莽のためにと思って報告したことだったのだろう。



そう考えると、実情を知る道を閉ざしたことばかりでなく、方針そのものがブレにブレまくっていることも問題だと言えるのではなかろうか。
方針が常に変わるのでは忖度すらできないではないか。