光武帝、子供の復讐

江陽縣
郡治。江。雒會。有方山蘭祠。江中有大闕・小闕。季春、黄龍堆沒、闕即平。
昔云、世祖微時過江陽、有一子。望氣者曰「江陽有貴兒氣。」王莽求之、縣人殺之。後世祖為子立祠、謫江陽民不使冠帶者數世。
(『華陽国志』蜀志)

『華陽国志』に記されているところでは、光武帝(世祖)劉秀が若い頃、自分の子を連れて江陽に居たが、王莽が「江陽に貴いオーラ力を感じます」というオーラ力の使い手の言葉を信じて江陽に命令を出し、かくして江陽の人間によって光武帝の子が捕らわれ殺されてしまったのだという。



そして光武帝は(おそらく蜀征服後)その子のために祠を立てて鎮魂すると共に、子に直接手を下した江陽の人々を何代にもわたって辺境防衛の任務に就かせるようにした*1のだ、と伝える。






言うまでもなく色々と怪しい話であり、信憑性は認めにくいと思うが、こういった話が後世伝わったところを見ると何か「光武帝の子の祠」があったとか、「後漢王朝が江陽の民に対して妙に厳しかった」みたいなことがあったとか、そういった事を説明する理由としてこの伝説が生まれたのかもしれない。




*1:「謫戍」などと言われるように犯罪者や下層民が辺境の砦の兵士にされることがよくあった。江陽の人間を息子殺しの罰としてそれに加えたということだろう。