蜀における劉禅評

蜀郡太守王崇論後主曰「昔世祖内資神武之大才、外拔四屯之奇將、猶勤而獲濟。然乃登天衢、車不輟駕、坐不安席。非淵明弘鑒、則中興之業何容易哉。後主庸常之君、雖有一亮之經緯、内無胥附之謀、外無爪牙之將、焉可包括天下也。
(『華陽国志』劉後主志)

讃曰、諸葛亮雖資英霸之能、而主非中興之器、欲以區區之蜀、假已廢之命、北吞強魏、抗衡上國、不亦難哉。似宋襄求霸者乎!然亮政脩民理、威武外振。爰迄琬・禕、遵脩弗革、攝乎大國之間、以弱為強、猶可自保。姜維才非亮匹、志繼洪軌、民嫌其勞、家國亦喪矣。
(『華陽国志』劉後主志)



蜀漢の後主こと劉禅のことは、陳寿三国志』では「何色にでも染まる白い糸のようだ」と婉曲に表現していたが、陳寿と同じ頃の王崇(広漢の人。蜀郡太守王商の曾孫で本人も蜀郡太守に至る)の『蜀漢書』では上記のように割とストレートに述べていたらしく、『華陽国志』の評もそれを踏襲しているようである。





王崇によれば「世祖光武帝は神のごとき軍事の才を持ち、更に優秀な将を抜擢し、更に勤勉に励んでやっと大業を成し遂げたのである。中興の業というのはたやすいことではないのだ。後主は凡君であり、諸葛亮がいたとはいっても助けとなる謀臣も手足となって働く将もいなかったのだから、どうして天下を取ることができようか」と、劉禅は凡君であると断じている。




そして、『華陽国志』自体の評はもっと手厳しく、「諸葛亮に覇者となる能力があったと言えども、主君は中興を成し遂げる器ではなかったのだから、狭い蜀で既に失われた天命を押し立てて強大な魏を併呑しようとしても難しくないわけがない」と、「この君主では諸葛亮がいたってダメだった」と切り捨てる。




暴君ではないが明君でもない、中興など成し遂げられるわけないだろ、ということか。





陳寿の評というのはまだ割と劉禅に対し好意的な方で、蜀の遺臣も(というか遺臣だからこそかもしれないが)否定的な意見も強かったということかもしれない*1




*1:むろん、この2者の評価が蜀人の意見の全てというわけではないだろうから、これだけで劉禅が悪く言われていたと決めつけることはできないが。