南北朝時代、宋の殷孝祖は危機に駆けつけた功績で皇帝から諸葛亮の「筩袖鎧帽」を拝領したという。
筒状の袖ということは腕を含めて全身を覆っていたということだろうか。
大きな弩の矢でさえも貫通しない、ということらしいから、かなり防御力の高い鎧なのだと思われる。
諸葛亮が使っていた遺物ということではなく、諸葛亮が作った(改良した)形式ということだろう。
泰始二年三月三日、與賊合戰、常以鼓蓋自隨、軍中人相謂曰「殷統軍可謂死將矣。今與賊交鋒、而以羽儀自標顯、若善射者十手攢射、欲不斃得乎?」是日於陣為矢所中死、時年五十二。
(『宋書』巻八十六、殷孝祖伝)
そんな殷孝祖は矢を受けて戦死してしまう。
これを「矢を通さない筈の諸葛亮の鎧は名前倒れだった」と解釈する余地もあるんだろうが、少なくともこの記事が意図しているのは違うことなのだろう。
つまり、戦場でも鼓笛隊や天蓋を引き連れていた彼は、「こんな自ら目立つことをしていては、大陸一の弓使いが十人も集まって狙って来たら倒されないわけがない」と軍中で言われたが、そういわれたその日にそのとおりやられてしまった、というのだから、これは「目立ちすぎて一気に狙撃されたので防御力随一の諸葛亮の鎧でもどうにもならなかった。軽率すぎた」ということだと思う。
もしかしたら、殷孝祖は防御力抜群の鎧を手に入れてしまったからこそ、気が大きくなってこんな悪目立ちすることをやらかしてしまったんじゃないか、と勘ぐることもできるかもしれない。
やっぱり戦犯諸葛亮の鎧じゃないか!