孔丘先生は董仲舒をどう見たのか

漢晉春秋曰「鍾離意相魯、見仲尼廟頽毀、會諸生於廟中、慨然歎曰『蔽芾甘棠、勿翦勿伐、況見聖人廟乎!』遂躬留治之。周觀輿服之在焉、自仲尼以來、莫之開也。意發視之、得古文策書、曰『亂吾書、董仲舒。治吾堂、鍾離意。璧有七、張伯盜一。』意尋案未了。而卒張伯者、治中庭、治地得六璧、上之。意曰『此有七、何以不遂?』伯懼、探璧懐中。魯咸以為神。」
(『続漢書』志第二十、郡国志二、予州、魯国注引『漢晋春秋』)


昨日の記事について、筋書はほぼ同一だが別の書中に伝わっていた話もあったようだ。





『漢晋春秋』では、発見された孔子こと孔丘先生の予言において「我が書を乱すのは董仲舒、我が堂を維持するのは鍾離意」と言っていたのだそうだ。




昨日引いた『鍾離意別伝』では「後世修吾書、董仲舒。護吾車、拭吾履、發吾笥、會稽鍾離意」となっており、孔丘先生は董仲舒に対して肯定的であるかのようだが、今見ている『漢晋春秋』では明らかに否定的になっている。






一応「乱」という文字自体に「おさめる」の意味もあるのでここも肯定的な意味合いである可能性も無くもないが、「董仲舒が孔丘先生の書を乱すということを先生は予言していた」というのは『論衡』でも見える話であるので、董仲舒が余計なことをした、と解する考え方があったということなんだろう。



今文派と古文派とかそんな感じのことが裏にあるのかもしれないけど、詳しくないのでここで終了。