『三国志』文帝紀を読んでみよう:その8

その7(https://t-s.hatenablog.com/entry/2020/01/31/000100)の続き。





四年春正月、詔曰「喪亂以來、兵革未戢、天下之人、互相殘殺。今海内初定、敢有私復讎者皆族之。」
築南巡臺于宛。
三月丙申、行自宛還洛陽宮。
癸卯、月犯心中央大星。
丁未、大司馬曹仁薨。
是月大疫。
夏五月、有鵜鶘鳥集靈芝池。詔曰「此詩人所謂污澤也。曹詩『刺恭公遠君子而近小人』、今豈有賢智之士處於下位乎?否則斯鳥何為而至?其博舉天下儁徳茂才・獨行君子、以答曹人之刺。」
六月甲戌、任城王彰薨於京都。
甲申、太尉賈詡薨。
太白晝見。
是月大雨、伊・洛溢流、殺人民、壞廬宅。
秋八月丁卯、以廷尉鍾繇為太尉。
辛未、校獵于滎陽、遂東巡。
論征孫權功、諸將已下進爵增戸各有差。
九月甲辰、行幸許昌宮。
(『三国志』巻二、文帝紀

黄初4年。


(黄武)二年春正月、曹真分軍據江陵中州。
是月、城江夏山。
改四分、用乾象暦。
三月、曹仁遣將軍常彫等、以兵五千、乗油船、晨渡濡須中州。仁子泰因引軍急攻朱桓、桓兵拒之、遣將軍嚴圭等擊破彫等。是月、魏軍皆退。
夏四月、(孫)權羣臣勸即尊號、權不許。劉備薨于白帝。
(『三国志』巻四十七、呉主伝)

本紀の詔では「今海内初定」などと言っているが、この時期は曹真や曹仁孫権と戦っていて、全然「初定」ではない。そして呉主伝では魏側が退いた事になっている。


それを受けて孫権の臣下は孫権に帝位に就くよう勧めたという。



そして劉備は死に、子劉禅が皇帝になった。



任城王曹彰死去。曹丕と母も同じで年齢も一番近い弟で、武功もある。年齢も30代半ばか前半といったところか。数年前には元気に父の璽綬のありかを尋ねていたのに、人生とはわからないものであるなあ。




そして賈詡の後の太尉には畜生が就任。


部下から魏諷みたいなのが出てきた割に復帰が早いな、この人。