涼州廃止

獻帝起居注曰「建安十八年三月庚寅、・・・(中略)・・・省涼州刺史、以并雍州部、郡得弘農・京兆・左馮翊・右扶風・上郡・安定・隴西・漢陽・北地・武都・武威・金城・西平・西郡・張掖・張掖屬國・酒泉・敦煌・西海・漢興・永陽・東安南、凡二十二郡。
(『続漢書』志第二十八、百官志五、州郡)

後漢末建安十八年、涼州刺史部が解体消滅し、それまでの司隷校尉の管轄を含む雍州が誕生した。




(楊)阜率國士大夫及宗族子弟勝兵者千餘人、使從弟岳於城上作偃月營、與(馬)超接戰、自正月至八月拒守而救兵不至。州遣別駕閻溫循水潛出求救、為超所殺、於是刺史・太守失色、始有降超之計。阜流涕諫曰「阜等率父兄子弟以義相勵、有死無二、田單之守、不固於此也。棄垂成之功、陷不義之名、阜以死守之。」遂號哭。刺史・太守卒遣人請和、開城門迎超。超入、拘岳於冀、使楊昂殺刺史・太守。
(『三国志』巻二十五、楊阜伝)

この前年、涼州刺史の韋康が馬超に殺されている。



多分、正式な涼州刺史の後任は選ばれないままに雍州への組織変更が行われたのだろう。




涼州は中原から遠く離れ、韋端・韋康の二代がおそらく建安の初年以前から州牧・刺史として君臨し続けていた州である。

つまり、中央に従属せず、独立の気風が強かったのではないかと思われる。


これを改組して三輔と一体の州にするというのは、涼州の人間の抵抗が予想される重大事件だったのではなかろうか。



韋康が討たれて間もないこの時こそ、改組のチャンスだった、ということだったのかもしれない。