永陽郡廃止

獻帝起居注曰「初平四年十二月、已分漢陽・上郡為永陽、以郷亭為屬縣。」
(『続漢書』志第二十三、郡国志五、漢陽郡)

後漢末、涼州の漢陽(天水)郡のあたりに永陽郡というのが新設されたそうだ。




上記引用中では「上郡」とあるが、あまりにも遠すぎるので「上邽」のことではないかと言われている。



そうなら涼州内のことということになり、漢陽郡の一部が独立して一つの郡になったということである。




十九年春正月、始耕籍田。南安趙衢・漢陽尹奉等討(馬)超、梟其妻子、超奔漢中。韓遂徙金城、入氐王千萬部、率羌・胡萬餘騎與夏侯淵戰、撃、大破之,遂走西平。淵與諸將攻興國、屠之。省安東・永陽郡。
(『三国志』巻一、武帝紀)


なお、この永陽郡は建安十九年、涼州における馬超の反乱が馬超敗走によって決着すると廃止されている。




このタイミングを考えると、そもそもこの永陽郡というのは半独立状態となった強力な在地豪族か何かを太守として遇するための郡で、馬超の乱でその太守が敗れたか、あるいは反乱側についたかしたために元の通り漢陽郡に併合された、ということなんじゃないだろうか。





子(蓋)順、官至永陽太守。
(『後漢書』列伝第四十八、蓋勲伝)


なお、永陽太守になった記録として涼州で活躍した蓋勲の子の名前が出てくる。



蓋勲は漢陽郡の長史となって代々の刺史に煙たがれた存在だったので、その息子も漢陽近辺で人心を得た実力者になっていて、それで太守に選ばれたのかもしれない。


まあ、その辺は全て憶測であるが。