恥ずかしい画像

文帝踐阼、(孫)權稱藩、遣(于)禁還。帝引見禁、鬚髮皓白、形容顦顇、泣涕頓首。帝慰諭以荀林父・孟明視故事、拜為安遠將軍。欲遣使呉、先令北詣鄴謁高陵。帝使豫於陵屋畫關羽戰克・龐悳憤怒・禁降服之状。禁見、慚恚發病薨。
(『三国志』巻十七、于禁伝)

有名なエピソード。



曹操の将軍于禁関羽に降伏し、関羽が呉に敗れると于禁も呉に移管した。



呉は魏に従属する関係であったため于禁は魏に返されたが、于禁が元の主曹操の陵墓へ参拝へ行くと陵墓の建物に関羽が勝利して自分が降伏しているというシーンが描かれているのを発見、彼は恥ずかしさのあまり病気になって死んでしまった、という。





この曹操の陵墓に描かれていたという絵なんだが、関羽が勝利して総大将であった于禁が降伏するという、曹操にとってみればその後に勝利するとはいえ屈辱のシーンがなぜ選ばれたんだろうか。

もっと良いシーンに差し替えてもよさそうなものなのだが。



当時の貴人の陵墓の構造やしきたりに詳しいわけではないのではっきりとしたことは言えないが、なんとなく不思議な感じがする。





于禁伝に書かれている内容では于禁への嫌味か何かのためにわざとしたようにも思われるが、個人的にはなんとなくひっかかる話である。



于禁を虐めるために父であり先代君主である曹操にとっての不名誉なシーンをわざわざ克明に記すのだとしたら、部下への態度は置いておくとしても親不孝ではないのだろうか。



それとも、曹操の失敗で危機的な状況に追い込まれたが色々あって現魏王が呉を服属させて皇帝に即位しました!素晴らしい!みたいな印象操作の一環だったのだろうか。