交易路

建初八年、代鄭衆為大司農。舊交阯七郡貢獻轉運、皆從東冶汎海而至、風波艱阻、沈溺相係。(鄭)弘奏開零陵・桂陽嶠道、於是夷通、至今遂為常路。
(『後漢書』列伝第二十三、鄭弘伝)

後漢の鄭弘という人が大司農となっていた時の事。




それまで交阯の郡から朝廷へ献上する貢物は会稽郡東冶から船で運搬していたが、当時の船旅は風や波で沈没する危険と隣り合わせであった。



そこで、鄭弘は荊州の零陵・桂陽の山脈に道を通すことを提案してその道を作った。






つまり後漢三国時代に交州で産出する品々を中原に輸送する方法としては、揚州からの海上輸送と、荊州を通る陸上輸送(途中で水路を使うかもしれないが)があった、ということになるんだろう。