捨て石の3郡

劉巴字子初、零陵烝陽人也。少知名、荊州劉表連辟、及舉茂才、皆不就。表卒、曹公征荊州。先主奔江南、荊・楚羣士從之如雲、而巴北詣曹公。曹公辟為掾、使招納長沙・零陵・桂陽。
【注】
零陵先賢傳曰、曹公敗於烏林、還北時、欲遣桓階、階辭不如巴。巴謂曹公曰「劉備荊州、不可也。」公曰「備如相圖、孤以六軍繼之也。
(『三国志』巻三十九、劉巴伝)

荊州劉巴は、曹操赤壁の戦いで敗れて北へ帰る際に長沙・零陵・桂陽郡を接収して曹操側の太守を置くという任務を与えられたらしい。


その際、劉巴曹操に「劉備荊州を占拠してしまうからできません」と意見したが、曹操は「劉備が何かしてきたら、私が天子の軍を率いて戻ってくる」と答えたのだとか。



思うに、もし曹操の軍が帰ってしまうと、劉備に反抗することで孤立する危険性がある長沙・零陵・桂陽郡を安心させて味方に付けるには、「曹操はすぐに戻ってくる」ということが必要だったのだろう。


まあ、結果から見ると曹操はこれらの郡が落ちようが、それどころか江陵が落ちようが荊州に戻ってくる気配は無かったわけだが。





この時、出来るだけ穏便かつ早急に北に帰りたい曹操としては、劉備(や周瑜)がすぐ追撃してこれないよう、長沙・零陵・桂陽郡をいわば盾となる「捨て石」にしたかったのではないか、とも思う。


援軍の約束を初めから守るつもりが無かったとまでは言わないが、曹操は長沙・零陵・桂陽郡を捨て石には利用しておいて援軍は出さずに終わった、ということになる。




わざわざ曹操を選び劉備からは逃げていた劉巴が最終的には劉備の元へ行くのも、その後長沙・零陵・桂陽郡が劉備孫権の間での争奪の対象にはなっても曹操・魏に与しようという動きは全く見せなくなったのも、劉巴とこれらの郡が曹操によって「騙された」と感じたからなんじゃないだろうか。