漢の漢たちを語る14「貨幣経済なんて飾りです」:貢禹

このままフェードアウトすると思った?残念さやかちゃんでした!




前漢の後半期は、王莽はもちろんだがそれ以前から制度改革の連続であった。


たぶんその流れは儒者が政界に繁殖していくのとリンクしている。



そして、その中でも特筆すべき存在の一人が貢禹である*1




貢禹は漢の元帝即位時に元帝が臣下から意見を求めた際にデビューを果たす。

唯陛下深察古道、從其儉者、大減損乘輿服御器物、三分去二。子産多少有命、審察後宮、擇其賢者留二十人、餘悉歸之。及諸陵園女亡子者、宜悉遣。獨杜陵宮人數百、誠可哀憐也。廄馬可亡過數十匹。獨舍長安城南苑地以為田獵之囿、自城西南至山西至鄠皆復其田、以與貧民。
・・・(中略)・・・
天子納善其忠、乃下詔令太僕減食穀馬、水衡減食肉獸、省宜春下苑以與貧民、又罷角抵諸戲及齊三服官。遷禹為光祿大夫。
(『漢書』巻七十二、貢禹伝)


彼は上奏の中でこんな提言をする。


「陛下は倹約を旨とすべきです。
 乗り物や衣服などの予算は三分の二縮小しなさい。
 後宮の女性は二十人だけ残して後は暇を出しなさい。
 陵墓に仕える女子も子を産んでいない者は派遣しないようにしなさい。
 皇帝の厩の馬も数十匹で十分です。
 皇帝の庭園も一部を除いて貧民に解放しなさい」


軽く言っているが割と大胆な内容である。

だが、おそらく元帝は得点が欲しかったのだろうか、この提言を一部受け入れ、皇帝の馬や庭園の獣への餌を減らし、一部の庭園を解放するなど、多少なりとも倹約の態度を示した。


皇帝が儒者の顔色を窺うようになる時代の始まりであった。




しかし、これは始まりでしかない。


自禹在位、數言得失、書數十上。
禹以為古民亡賦算口錢、起武帝征伐四夷、重賦於民、民産子三歲則出口錢、故民重困、至於生子輒殺、甚可悲痛。宜令兒七歲去齒乃出口錢、年二十乃算。
又言・・・(中略)・・・市井勿得販賣、除其租銖之律、租税祿賜皆以布帛及穀。使百姓壹歸於農、復古道便。
又言諸離宮及長樂宮衞可減其太半、以𥶡繇役。又諸官奴婢十萬餘人戲遊亡事、税良民以給之、歲費五六鉅萬、宜免為庶人、廩食、令代關東戍卒、乘北邊亭塞候望。
又欲令近臣自諸曹侍中以上、家亡得私販賣、與民爭利、犯者輒免官削爵、不得仕宦。
・・・(中略)・・・
天子下其議、令民産子七歲乃出口錢、自此始。
又罷上林宮館希幸御者、及省建章・甘泉宮衛卒、減諸侯王廟衞卒省其半。
餘雖未盡從、然嘉其質直之意。
禹又奏欲罷郡國廟、定漢宗廟迭毀之禮、皆未施行。
(『漢書』巻七十二、貢禹伝)


彼はこんなにたくさんの事を進言したとされている。



人頭税が3歳から徴収されているせいで子減らしが横行する。7歳から取るようにすべきだ」

「金銭というものがあるから商売などという末業がはびこるのだ。金銭は廃止せよ。租税や恩賞は反物や穀物を使えばよろしい」

「十万人もの官奴婢はリストラして北辺の防人にしろ」

「近臣たちの副業を禁止しろ」

「郡国廟は廃止し、皇帝廟の制度を定めて廃止すべき廟を決めろ」


これでも実は全部ではない。


サラッととんでもない内容が含まれているのだが、当時の儒者たちの多くは大小あれどおおむねこういった政治思想を胸に秘めていたということだろう。




特にヤバそうなのは金銭廃止だが、これは前漢末にも一度真剣に議論された形跡があるのだ。

會有上書言古者以龜貝為貨、今以錢易之、民以故貧、宜可改幣。上以問(師)丹、丹對言可改。章下有司議、皆以為行錢以來久、難卒變易。丹老人、忘其前語、後從公卿議。
(『漢書』巻八十六、師丹伝)

このとき三公だった儒者師丹は一度はそれに賛成しており、この「金銭という存在を廃止すれば農業が復活する」という思想は儒者の間で伝えられていたのだと思われる。

当時の儒者が時に夢想的な改革思想家集団であったことが伺えよう。



また、皇帝の廟制度を決めようというのも当時の儒者の関心事だったようで、このことは貢禹より後の儒者政治家たちによって実現する。



元帝は彼の進言すべてに従うほど夢想家ではなかったようだが、人頭税の徴収開始年齢引き上げや皇帝の近辺で経費削減を進めることには同意した。





そしてその後、先ほども書いたように皇帝廟の制度が定められ、王莽は倹約によって世間の支持を得るようになり、新王朝の時代になるとそれまで金と銭だけだった貨幣制度に現物貨幣を模したような各種貨幣が加えられるようになるのである。


彼の提示した諸改革案は、良くも悪くもその後の漢王朝の行く末にレールを敷いたと言えるかもしれない。




*1:念のため言っておくと、『尚書』禹貢篇から取った冗談のように見える名前だが別に冗談ではない。本名である。