『漢書』元帝紀を読んでみよう:その9

その8(http://d.hatena.ne.jp/T_S/20180315/1521040246)の続き。




四年春二月、詔曰「朕承至尊之重、不能燭理百姓、婁遭凶咎。加以邊竟不安、師旅在外、賦斂轉輸、元元騷動、窮困亡聊、犯法抵罪。夫上失其道而繩下以深刑、朕甚痛之。其赦天下、所貸貧民勿收責。」
三月、行幸雍、祠五畤。
夏六月甲戌、孝宣園東闕災。
戊寅晦、日有蝕之。
詔曰「蓋聞明王在上、忠賢布職、則羣生和樂、方外蒙澤。今朕晻于王道、夙夜憂勞、不通其理、靡瞻不眩、靡聽不惑、是以政令多還、民心未得、邪説空進、事亡成功。此天下所著聞也。公卿大夫好惡不同、或縁姦作邪、侵削細民、元元安所歸命哉!乃六月晦、日有蝕之。詩不云虖?『今此下民、亦孔之哀!』自今以來、公卿大夫其勉思天戒、慎身修永、以輔朕之不逮。直言盡意、無有所諱。」
九月戊子、罷衛思后園及戻園。
冬十月乙丑、罷祖宗廟在郡國者。諸陵分屬三輔。以渭城壽陵亭部原上為初陵。
詔曰「安土重遷、黎民之性。骨肉相附、人情所願也。頃者有司縁臣子之義、奏徙郡國民以奉園陵、令百姓遠棄先祖墳墓、破業失産、親戚別離、人懷思慕之心、家有不安之意。是以東垂被虛耗之害、關中有無聊之民、非久長之策也。詩不云虖?『民亦勞止、迄可小康、惠此中國、以綏四方。』今所為初陵者、勿置縣邑、使天下咸安土樂業、亡有動搖之心。布告天下、令明知之。」又罷先后父母奉邑。
(『漢書』巻九、元帝紀)


この年、元帝は実はちょっとした改革を始めている。



皇帝廟制度の改革である。




そのあたりの経緯は『漢書』韋玄成伝にまとめられており、かつてこのブログでも紹介した



詳しくはその時の記事を見た方がいいと思うが、まずは今回の郡国廟、つまり長安以外の各地に置かれていた歴代皇帝の廟の廃止から始まった。



発案者は既にこの世にはない貢禹。調整し実現したと思われるのが丞相韋玄成。どちらも儒者




なので、この改革は多分に思想的な面が含まれていると思われるが、その一方では「費用の削減」「人々の負担軽減」といった要素も強いのではないかと思う。


これまでやってきた祭祀制度の一部を、儒学によって思想的な正当性を保ちつつスリム化しよう、というのが元帝と貢禹・韋玄成らの意図といったところではないだろうか。