以前、こんな記事を書いた。
三国時代の公孫氏政権は遼東方面に「平州」という新しい州を作っていたが、それが晋には取り入れられて公式化したようだ、と。
もしかすると、魏の時代にも「平州」を公式化する動きはあったかもしれない。
司馬彪戰略曰、太和六年、明帝遣平州刺史田豫乘海渡、幽州刺史王雄陸道、并攻遼東。
(『三国志』巻十四、蔣済伝注引『戦略』)
魏の明帝は「平州刺史」の田予に遼東攻撃させた、という。
公孫氏政権へのアピールのような面もあったのかもしれないが、魏の側も「平州」を使っているのは興味深い。
もしかしたら、実は公孫氏の「平州」は曹操が献帝の名のもとにお墨付きを与えた「公式」な州名だったりするのかな。
『三国志』公孫度伝の時系列によれば公孫度が平州牧を自称してから曹操は彼に将軍位を与えている。
平州牧は曹操が追認したのかもしれない。その部分がどうなったかは特に書かれていないが。
もしそうなら、その後継王朝である魏や晋で平州刺史を任命しても不思議ではないことになる。