曹丕の挙主

魏書曰、帝生時、有雲氣青色而圜如車蓋當其上終日、望氣者以為至貴之證、非人臣之氣。年八歳能屬文。有逸才、遂博貫古今經傳諸子百家之書。善騎射、好撃劍。舉茂才、不行。
(『三国志』巻二、文帝紀注引『魏書』)

曹丕はどこかの段階で茂才に挙げられたがそれに応じなかったのだという。




茂才は三公九卿や刺史・牧が挙げるのが普通らしい。



だが、その後に司徒趙温が辟召したところ曹操によって罷免されたという事件も起こっている事からわかるように、この時期に権力者曹操の後継ぎ(になるかもしれない)子を挙げるというのは結構度胸のいる行為と言えよう。




また、父曹操の例で行くと20歳で孝廉に挙げられている。



曹丕も20歳前後で茂才に挙げられた可能性が高いのだろう。



曹丕が20歳前後の頃というと、建安12年頃。前後を広めに考えるとしても、官渡以降から赤壁前までというところだろう。




その時期に曹丕を茂才に挙げる権限を有する三公九卿または曹丕の本貫予州の刺史か牧で、曹操に対して畏れを持つ事もなく、それでいて曹丕が応じなかった人物。






これ、予州牧劉備では?*1

*1:前にも書いたかもしれないが。