何晏七歳、明惠若神、魏武奇愛之。因晏在宮内、欲以為子。晏乃畫地令方、自處其中。人問其故?答曰「何氏之廬也」魏武知之、即遣還
(『世説新語』夙惠第十二)
魏の何晏さんは子供の頃から大変聡明だった。
あまりの聡明さに、何晏の母を側室としていた曹操さんは彼を自分の子にしようと思った。
しかしそれを知った何晏は地面に四角い線を引いてそこの中から出ないようになった。
何をしているのかと聞かれると「これは何氏の喪に服するための庵です」と答えたのだった。
曹操はそれを聞くと、彼を自分の子供にするのを止めて自分の後宮から帰したという。
つまり、曹操は何晏に曹氏を名乗らせて自分の息子として扱おうとしたが、何晏はあくまでも何氏(=実の父親)のために喪に服するという態度を示して曹氏になることを拒否したということだ。
曹操は自分の側室の連れ子を異姓養子にしようとしていたということになる。