曹均の謎

樊の安公 【曹均】
http://d.hatena.ne.jp/AkaNisin/20100801/1280637304

id:AkaNisin氏の少々昔の記事を読んで初めて気づいたこと。




そこの記事に出ているように、曹操の子の一人である曹均の家は最終的に屯留公となっている。

樊安公均、奉叔父薊恭公彬後。建安二十二年、封樊侯。二十四年薨。子抗嗣。黄初二年、追進公爵、諡曰安公。三年、徙封抗薊公。四年、徙封屯留公。景初元年薨、諡曰定公。子褜嗣。景初・正元・景元中、累筯邑、并前千九百戸。
(『三国志』巻二十、樊安公均伝)


曹操の息子が全て王になったわけではなく、公どまりの者もいるので、彼とその直系が公どまりなこと自体は不思議ではない。



ただ、彼の家は他の王家へ養子を出しており、本家が公、養子が王という逆転現象を数多く起こしている。


流石に本家も王にしてやれよと思う。一県か数県程度の領主であることに変わりはない(しかも事実上の軟禁状態)のだから。



もしかしたら、曹均の本家は一種の罰として敢えて公にとどめられているのではなかろうか?





で、その理由ではないかと思われるのも引いた記事にあった。

(張)繡至、太祖執其手、與歡宴、為子均取繡女、拜揚武將軍。
・・・(中略)・・・子泉嗣、坐與魏諷謀反誅、國除。
【注】
魏略曰、五官將數因請會、發怒曰「君殺吾兄、何忍持面視人邪!」繡心不自安、乃自殺。
(『三国志』巻八、張繍伝)

張繍が降伏してきた時に曹操はわが子曹均の妻として張繍の娘を迎えた。




だが張繍曹操の長子曹昂が戦死する原因を引き起こした人物であり、曹丕張繍に暴言を吐いて張繍を自殺に追い込んだと言われている。



つまりその婿殿曹均も曹丕から良く思われていないかもしれないということだ。とばっちりもいいとこではあるが。




更に、曹均が死んだ年というのは、張繍の子の張泉(すなわち曹均とは義理の兄弟ということになる)が魏諷の乱に加担した罪で誅殺されたのと同時期である。



あるいは、曹均自身もまた張泉と共に魏諷側に取り込まれていたのかもしれない(つまり曹均の死は自然死ではないかもしれないということだ)。



だとすれば、曹均は子孫が公を保っているだけでも御の字としなければいけないだろう。





初代皇帝から嫌われた人物の婿にして、魏王国最大の謀反の関係者。




公位を与えられてきただけでよしとしなければいけない家系だった、ということかもしれない。





もしかすると、他の王家へガンガン養子に出されるというのも、「立場が弱い」家だからだったのかもしれないなあ・・・。これはちょっと確証はないけど。