曹操の妻について一考

最初に断わっておくが、今から書くことは推測というか憶測であって根拠は無いに等しい。



ただ、そういう風に考えてもいいんじゃないか、面白いんじゃないか、ということである。




魏略曰、太祖始有丁夫人、又劉夫人生子脩及清河長公主。劉早終、丁養子脩。
(『三国志』巻五、武宣卞皇后伝注引『魏略』)


魏の太祖すなわち曹操の正妻といえば卞氏で、その前には丁氏という妻がいたが離縁した、というのは三国志ハァンであればまあ良く知られていることだろう。



そして、曹操の長男曹昂(字子修)はそのどちらでもない劉夫人が生んだが、劉夫人は早くに死んだらしい。




石井仁先生の名著『魏の武帝 曹操』などでは劉夫人を側室としている。ただ、自分としてはその点と「劉夫人の出自と、死んだ経緯」について少しばかり別の考え方を述べてみようと思う。





まず曹操が最初に結婚した時期を考えてみよう。当時の習俗からすると、十代後半位には結婚していたのではなかろうか。遅くとも、二十歳以降ということはあるまい。




霊帝の最初の皇后宋氏が皇后に立てられるのが建寧三年(紀元170年)で、この時曹操数えで16歳。



宋皇后が廃位、その一族が誅殺され、宋皇后の一族と通婚していた曹氏も曹操を含め罷免されたのが光和元年(紀元178年)で、この時曹操数えで25歳ということになる。




その間、宋皇后関係者であった渤海王の事件があるなど順風満帆とはいかなかったものの、曹氏は大宦官の威光から高位高官に就き、更に皇后とも縁続きとなることで更なる地盤固めを進めていたことだろう。




曹操が最初の結婚をした可能性が高い時期こそ、その間である。



印象ではあるが、その時期に曹氏の中でも既に高い能力が認められていたはずの曹操の正妻は、地元(沛の丁氏)よりも、中央に顔が利く、いわばもっと格上の家から選ばれたのではなかろうか(というよりも、中央の名家・勢力家から引く手あまただったのではなかろうか)。


魏書曰、太祖從妹夫■彊侯宋奇被誅、從坐免官。後以能明古學、復徴拜議郎。
(『三国志』巻一、武帝紀注引『魏書』)


実際、曹操の従妹は地元とは関係ない宋奇(宋皇后の近親と思われる)に嫁いでいる。





それと、曹操の妻丁氏がいつ曹操に嫁いだのか、上記引用からは実は明確ではない。


その一方で、劉夫人は建安二年(紀元197年)に二十歳は過ぎていた曹昂を生んでいる以上、どんなに遅くとも光和元年(紀元178年)より以前から曹操の子を産んでいたことが確実である。




となると、丁氏は実は曹操最初の妻ではなく、劉夫人の方が丁氏輿入れより前から曹操の元にいた可能性が高い、ということになる。


無論、劉夫人はあくまでも側室という可能性も十分あるが、曹操の妻妾の中でもかなり早い段階からいたことが明らかであったことや、曹昂曹鑠清河長公主の母で、「後妻」丁氏も我が子として扱った(嫡子ということになるはずだ)というあたりからすると、劉夫人こそが正妻だった可能性は割と高いのではないか、と思う。




そして、これを認めるとすると、劉夫人は、曹氏が宋皇后一族と接近していた時期に結婚した女性ということになるので、劉夫人自身も宋皇后関係者だったりしないだろうか、とも連想したくなる。


特に密接に繋がろうとする一族同士なら、二重・三重に婚姻関係を結ぶものだ。



だとしたら、劉夫人の死因についても怖い連想をしたくなる。

光和元年、遂策收璽綬。后自致暴室、以憂死。在位八年。父及兄弟並被誅。
(『後漢書』紀第十下、霊帝宋皇后紀)


宋皇后の父や兄弟は皇后と共に命を落としている。もし、劉夫人が宋皇后縁者(たとえば、母が宋氏とか)だとしたら、誅殺あるいは自殺を命じられる可能性があるだろう。



実家が謀反などの嫌疑をかけられたり皇帝に嫌われたりした際に嫁ぎ先がその嫁を離縁したりこの世からしまっちゃうおじさんしたりしてしまって家を守ろうということもしばしば見られる。




丁氏は、劉夫人がその事件の結果いなくなってから、後妻として迎えたのではないだろうか。劉夫人よりも家柄的には多少落ちるのかもしれないが*1、曹氏も曹操自身も免官を喰らった後だということを考えれば不思議ではない。






繰り返すが、この事は根拠は無いと言っていい。憶測どころか妄想の類と言っても過言ではないだろう。



それでも、劉夫人と丁氏の関係は、こんな風に考えた方がすっきりするんじゃないだろうか、と自分では思っている。

*1:もっとも、同族から三公も出すことになるのでそこまで低い家柄でもないだろうが。