何晏の祖父



こんなツイートを見たので、いつものように人のふんどしで相撲を取らせてもらおう。


魏略曰「何晏字平叔、南陽宛人、漢大将軍何進孫也。或云何苗孫也。尚主、又好色、故黄初時無所事任。正始中、曹爽用爲中書、主選舉、宿舊者多得濟拔。爲司馬宣王所誅。」
(『世説新語』言語第二注引『魏略』)

魏略曰「太祖為司空時、納晏母并收養晏、其時秦宜祿兒阿蘇亦隨母在公家、並見寵如公子。蘇即朗也。蘇性謹慎、而晏無所顧憚、服飾擬於太子、故文帝特憎之、每不呼其姓字、嘗謂之為「假子」。晏尚主、又好色、故黄初時無所事任。及明帝立、頗為冗官。至正始初、曲合于曹爽、亦以才能、故爽用為散騎侍郎、遷侍中尚書。晏前以尚主、得賜爵為列侯、又其母在内、晏性自喜、動靜粉白不去手、行歩顧影。晏為尚書、主選舉、其宿與之有舊者、多被拔擢。」
(『三国志』巻九、曹爽伝注引『魏略』)


確かに、『世説新語』の劉孝標注に見える『魏略』と『三国志裴松之注に見える『魏略』では、ほぼ同じ部分を引用しているように見えて割と違っている。


おそらく、お互いに注釈者が不要と思った部分を省略していたりしているのではなかろうか。
裴松之の方が『魏略』オリジナルに近そうだが、冒頭部分は省略されているので完全ではない。



そして冒頭のツイート引用にあるように本来『魏略』では何晏が何苗の孫であるという異説の存在を指摘していたようだ。


異姓の曹操の養子になることを七歳にしてとことん拒んだ何晏としては聞き捨てならない噂である。