誘い文句

(景耀)六年冬、魏征西將軍鄧艾伐蜀、自陰平由景谷道旁入。(諸葛)瞻督諸軍至涪停住、前鋒破、退還、住緜竹。艾遣書誘瞻曰「若降者必表為琅邪王。」瞻怒、斬艾使。遂戰、大敗、臨陳死、時年三十七。衆皆離散、艾長驅至成都
(『三国志』巻三十五、諸葛瞻伝)

鄧艾らによる蜀漢攻めの際、諸葛亮の子諸葛瞻に対して鄧艾は「もし降伏したら琅邪王にするよう言上する」と誘いをかけたという。




よくよく考えると、まだ劉禅がどうなるかも、その処遇も未確定なまま、その臣下でしかない諸葛瞻を王にするよう口を聞いてやる、というのは、相当に大胆ではなかろうか。当時、王は晋王司馬昭以外には曹氏しかいなかったのだし。


范陽閔王矩、早薨、無子。建安二十二年、以樊安公均子敏奉矩後、封臨晉侯。黄初三年追封諡矩為范陽閔公。五年、改封敏范陽王。七年、徙封句陽、太和六年、追進矩號曰范陽閔王、改封敏琅邪王。景初・正元・景元中、累增邑、并前三千四百戸。敏薨、諡曰原王。子焜嗣。
(『三国志』巻二十、范陽閔王矩伝)

しかも、まだこの時点では魏に琅邪王曹敏(曹焜)がいたはずである。



鄧艾は曹氏の王を移動させて諸葛瞻を琅邪王にする、という絵図を描いていたことになるだろう。




これは諸葛瞻を誘うための方便で、本気でそうするつもりではなかったかもしれない。



とはいえ、鄧艾は「一将でしかない者が」「敵国の君主ですらない者を」「司馬昭と曹氏しかいない王にしてやる」と言っていたことになる。




この一件だけでも越権行為だと取られるのではないだろうか。少なくとも、そういった嫌疑を受けても不思議ではない言動だろうと思う。