初、隴西宋建自稱河首平漢王、聚衆枹罕、改元、置百官、三十餘年。遣夏侯淵自興國討之。冬十月、屠枹罕、斬建、涼州平。
(『三国志』巻一、武帝紀、建安十九年)
初、枹罕宋建因涼州亂、自號河首平漢王。太祖使(夏侯)淵帥諸將討建。淵至、圍枹罕、月餘拔之、斬建及所置丞相已下。
(『三国志』巻九、夏侯淵伝)
後漢末、涼州隴西郡の枹罕(枹罕県は元々は金城郡に属していたらしい)で「河首平漢王」を自称し自立した宋建という者がいた。
彼は三十年にもわたり自立していたと『三国志』などは記すのだが、これはどこまで素直に信用すべきなんだろうか。
同じ金城郡の韓遂などは漢王朝や時の権力者に対し反乱したり従ったりを繰り返していたわけだが、宋建はずっと独立し続けていたんだろうか。
一応は漢の涼州牧・涼州刺史として韋端・韋康親子がいたわけだが、王を称した宋建を彼らは完全放置だったんだろうか。
それとも、実は王を称したのは意外と最近のことだったりするんだろうか。
『三国志』の書き方だと王を称して三十年であるかのように読めるが、乱を起こしてすぐ王を称し、しかもその後ずっと碌に討伐もされなかったりするものだろうか。
それと、夏侯淵伝に見える「涼州乱」とはいつのことなんだろうか。
霊帝の頃あたりにまで遡ってずっと王を称していたということなんだろうか。
それとも、馬超によって起こされた涼州刺史韋康殺害などの乱のことを言うのだろうか。
涼州牧韋端らに対しては事実上独立していながらもおおむね従っていたが馬超の乱に呼応して完全独立を企み王を自称したか、あるいは涼州刺史が殺されるという異常事態を前にして独立を考えたか、そういったことだったりしないだろうか。
根拠はないので注意。ただ、ふと思った疑問を書いただけ。