『三国志』武帝紀を読んでみよう:その40

その39(https://t-s.hatenablog.com/entry/2020/01/14/000100)の続き。





秋七月、公征孫權。
初、隴西宋建自稱河首平漢王、聚衆枹罕、改元、置百官、三十餘年。遣夏侯淵自興國討之。
冬十月、屠枹罕、斬建、涼州平。
公自合肥還。
十一月、漢皇后伏氏坐昔與父故屯騎校尉完書、云帝以董承被誅怨恨公、辭甚醜惡、發聞、后廢黜死、兄弟皆伏法。
十二月、公至孟津。
天子命公置旄頭、宮殿設鍾虡。
乙未、令曰「夫有行之士未必能進取、進取之士未必能有行也。陳平豈篤行、蘇秦豈守信邪?而陳平定漢業、蘇秦濟弱燕。由此言之、士有偏短、庸可廢乎!有司明思此義、則士無遺滞、官無廢業矣。」
又曰「夫刑、百姓之命也、而軍中典獄者或非其人、而任以三軍死生之事、吾甚懼之。其選明達法理者、使持典刑。」於是置理曹掾屬。
(『三国志』巻一、武帝紀)

献帝の伏皇后、死す。


魏武の娘たちが既になっている「貴人」は皇后の一つ下の側室なので、つまるところ魏武の娘たちが新たな皇后の第一候補になるわけである。



なかなか絶妙なタイミングで事件が発覚したものだ。魏武一家から皇后を出したがっていたとしたら、とてつもなく幸運な話だ。



なお、この時に伏皇后だけではなく献帝の皇太子(後継ぎ)も一緒に殺されたかもしれない、と以前記事にした。





夏侯淵、宋建も倒して涼州を制圧。



いやしかし、馬超涼州刺史韋康を包囲していた時に限って動きが鈍く、それ以外は果断で有能である。不思議なものだ。