初、隴西宋建自稱河首平漢王、聚衆枹罕、改元、置百官、三十餘年。遣夏侯淵自興國討之。冬十月、屠枹罕、斬建、涼州平。
(『三国志』巻一、武帝紀、建安二十年)
後漢末の涼州で宋建という者は金城郡の枹罕県で三十年間自立していたとされる。
中平元年、拜東中郎將、持節、代盧植撃張角於下曲陽、軍敗抵罪。其冬、北地先零羌及枹罕河關羣盜反叛、遂共立湟中義從胡北宮伯玉・李文侯為將軍、殺護羌校尉泠徴。伯玉等乃劫致金城人邊章・韓遂、使專任軍政、共殺金城太守陳懿、攻燒州郡。
(『後漢書』列伝第六十二、董卓伝)
宋建が討たれる三十年ほど前というと、こんな事件が起こっていることが確認できる。
関係者が枹罕および枹罕県の属する金城郡に集中しているようなので、この反乱の中心となった「枹罕河関群盜」こそが宋建らの集団の前身あるいは一部なのだろう。
この群盗が枹罕で独自の勢力となって事実上独立状態になっていたということになる。
『三国志』武帝紀の記述の通りなら、この頃から枹罕の勢力は王を名乗り改元していたことになるが、上記『後漢書』董卓伝などにはその群盗たちが王を名乗ったなどの記事は無いようだ。
個人的感想であるが、『三国志』武帝紀の記述はそのまま信用できないのではないかと感じる。
思うに、反乱を起こし独立状態となってから三十年経つのは事実だろうが、王を称し改元するなどの僭上の沙汰は、それよりもずっと後になってからのことなのではないだろうか。
そうでなければ、いくら辺境とはいえ一県に集まっているだけの勢力が漢の権威を真っ向から否定するようなことしておきながら三十年間周辺の太守も刺史も中央も全くのノータッチということになってしまい、少々考えにくい*1。