袁紹忠臣説2

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【その4】

袁紹は劉虞擁立失敗の後、冀州牧の地位を奪いそこを拠点に天下を争うこととなった。

だが、その本心が漢の復興であったことは以下のエピソードからも窺える。

從事沮授説紹曰「將軍弱冠登朝、則播名海内。値廢立之際、則忠義奮發。單騎出奔、則董卓懷怖。濟河而北、則勃海稽首。振一郡之卒、撮冀州之衆、威震河朔、名重天下。雖黄巾猾亂、鄢山跋扈、舉軍東向、則青州可定、還討鄢山、則張燕可滅、回衆北首、則公孫必喪、震脅戎狄、則匈奴必從。膻大河之北、合四州之地、收英雄之才、擁百萬之衆、迎大駕於西京、復宗廟於洛邑、號令天下、以討未復、以此爭鋒、誰能敵之?比及數年、此功不難。」紹喜曰「此吾心也。」即表授為監軍・奮威將軍。
(『三国志』巻六、袁紹伝)

沮授のこの進言を袁紹は「これぞ私の心中と同じである」と言って喜んでいる。


河北を収めて中原に打って出て、皇帝を迎えて洛陽の皇帝廟を修復し天下に号令をかける。


これだけの勢力を得てもなお敢えて皇帝を迎えようと思っている点に注目すべきだ。
前回見たように、袁紹は皇帝を傀儡化しようと思っていない。いずれ自分が主君として仕えるべき者の存在を強く意識しているのだ。


有名な荀紣は自分の主君を積極的に高祖劉邦光武帝劉秀に準え、自らが天子にならんとする主君の気持ちをくすぐると共にまだ弱体な勢力の伸長策として皇帝を利用しようとする策を勧めている。

この袁紹と沮授のやりとりは、似ているようで実は荀紣とその主君の対極にあるのだ。



【その5】

これまでの話を見て、「待てよ、袁紹は最初は献帝(劉協)を認めていなかったじゃないか。それに献帝が近くに来た時に迎えなかったじゃないか」と疑問に思う人もいるだろう。

だが、それについては袁紹とその陣営の複雑な事情を考慮すべきだろう。

獻帝傳曰、沮授説紹云「將軍累葉輔弼、世濟忠義。今朝廷播越、宗廟毀壞、觀諸州郡外託義兵、内圖相滅、未有存主恤民者。且今州城粗定、宜迎大駕、安宮鄴都、挾天子而令諸侯、畜士馬以討不庭、誰能禦之!」紹悦、將從之。郭圖・淳于瓊曰「漢室陵遲、為日久矣、今欲興之、不亦難乎!且今英雄據有州郡、衆動萬計、所謂秦失其鹿、先得者王。若迎天子以自近、動輒表聞、從之則權輕、違之則拒命、非計之善者也。」授曰「今迎朝廷、至義也、又於時宜大計也、若不早圖、必有先人者也。夫權不失機、功在速捷、將軍其圖之!」紹弗能用。
(『三国志』巻六、袁紹伝注引『献帝伝』)

先ほどの話にもあるように、沮授は「劉協を迎えるべし」派だったと思われる。

袁紹がそれを喜び従おうとしたのは一見これまでの袁紹と矛盾するようだが、話はそこまで単純ではないのだろう。


董卓の蜂起の際に袁紹が別の皇帝を立てようとしたのは、劉協が逆臣董卓の傀儡以外の何者でもなかったからである。

しかし、沮授が進言した時には董卓は居ないし、その後継者李・郭らからも離れている。
つまり逆臣の傀儡という立場からは脱しているのである。

逆臣が立てた傀儡ではなくなったのであるから、その皇帝を許容する余地もあるということだと思われる。



また、結局劉協を迎えなかった件については、淳于瓊ら反対者がいたという所から、袁紹の幹部たちは全員が同じ気持ちではなかったという点、および「まだその時期ではない」と思ったかもしれないという点があったのかもしれない。

沮授によれば「膻大河之北、合四州之地、收英雄之才、擁百萬之衆」が皇帝を迎える条件なのであるから。

余談だが、この条件を満たしていたと思われるのは官渡の戦いに負ける以前の事だろう。つまり官渡の戦いとは自分が仕えるべき皇帝を曹操の元から救い出すための戦いだったことになる。