建安十八年の涼州メモ

(馬)超率諸戎渠帥以撃隴上郡縣、隴上郡縣皆應之、惟冀城奉州郡以固守。
超盡兼隴右之衆、而張魯又遣大將楊昂以助之、凡萬餘人、攻城。
(楊)阜率國士大夫及宗族子弟勝兵者千餘人、使從弟岳於城上作偃月營、與超接戰、自正月至八月拒守而救兵不至。
州遣別駕閻温循水潜出求救、為超所殺、於是刺史・太守失色、始有降超之計。阜流涕諫曰「阜等率父兄子弟以義相勵、有死無二。田單之守、不固於此也。棄垂成之功、陷不義之名、阜以死守之。」遂號哭。刺史・太守卒遣人請和、開城門迎超。超入、拘岳於冀、使楊昂殺刺史・太守。
(『三国志』巻二十五、楊阜伝)

三輔から追い払われた馬超涼州に逃げ、涼州内に波乱を起こした。


涼州刺史韋康に喧嘩を売り、ついには降伏させて処刑するまでに至ったのである。


この後、州の参軍楊阜ら刺史恩顧と思われる涼州人たちの反抗があって馬超の乱は失敗することになる。



こうして見ると刺史を降伏させているというのは、劉備劉璋を降伏させているのと同じで、戦後処理を上手くやったかどうかが劉備馬超の差だということになるのかもしれない。



それと、刺史らは八カ月間にわたり冀城で籠城を続けた上で屈したようだが、曹操からの援軍がさすがに遅いのではなかろうか。

と思ったら、この時期は曹操は魏公へ封建された時に当たっていた。
曹操的には)大イベントの魏公封建と涼州援軍を両立できず、前者を優先させたのだろうか。